第16回  眼で描く芸術と心で描く芸術

 先日、足立美術館を訪ねました。真夏の緑と白砂、空の青とが織りなす庭園の美は印象的です。四季折々に目に映る風情は異なるものの、心を澄ませば、時と空間を超える寂静を感じられるように思います。海外からの観光客にもっとも人気のある美術館であるそうです。
そのさいに、『画談 日本画家のことばと作品』を手にしました。そこにある横山大観画伯の言葉です。

 「芸術には眼で描く芸術と、心で描く芸術と、二つある。眼で描く芸術は技術が主になりたがり、心で描く芸術は技術を従とする傾きがあります。当然に前者は眼で観る外なく、後者は心で読むと云ふ事になります。吾々が尊敬する先賢の遺業の多くも、心で描いた芸術ではありませんか。・・・・自然を全然離れた絵が成立たぬ如く、古名画にも教えられる節が多い。だから何方も大切であるが、唯だ絵は何処までも心で描かねばならぬといふ一事を忘れてはならぬ。」

 「古画を見て、ただそれを写すととその精神を捉へることができない。だから、古画を毎日掛けてはしまひ、掛けてはしまひ、一週間くらゐ何もせずにそれを見てゐて、古画がすっかり脳裡に入ってしまってから、これを初めて写すといふのです。」

 芸術の神髄に関わる大家の言葉ですので、その意味するところはおよそ理解の及ばないものではあります。ただ、絵を見て思わずのめり込んでしまい、魂を揺さぶられた経験が一度や二度はあるのではないでしょうか。名画はより多くの人に何かを実感させる精神、魂が込められているのでしょう。「侘び」「寂び」もかく表現できるのか、すべてが縁により変化していくなか、一時点を切り取って描かれたと思われる絵がその変化を感じさせるのはなぜなのかと学ぶことばかりです。

 法律学は説得の学問といわれますが、その道を極めて紛争解決の妙を実感しクライアントにも何かの示唆をもたらし充足感を付与するに至るには、古画の模写という方法において、魂の抜けた絵を描くことのないように留意された点が、法曹への学修の出発点から意識されなければならないように思われます。基本書を開いて読み、開いて読みを繰り返して、その一節をそらんじ、口ずさみつつ考えて、そこに埋め込まれた意味、意義、そして筆者の価値観を読み解く経験は極めて重要でしょう。疑問を残しても、考えた経験が次にその一節を見たときに新たな気づきを与えて、世界を広げてくれる、思いもつかない解決法を見いだすことにつながると思います。

 次回は「まぐれ当たり」です。


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