第17回  まぐれ当たり

 新聞記事を見ていた知り合いが、「まぐれ当たり」はあるのかと尋ねてきました。その記事は、夏の甲子園で活躍するスラッガーについて、その所属するチームの監督の言葉を伝えるものでした。「まぐれがずっと続いているので、いつまで続くのかなという気がしますけど、できれば明日まで続いてほしいと思います」との言葉です。別の新聞では、「まぐれも実力のうち」と掲載されていましたので、「まぐれ」という言葉にひっかかったようです。辞書で「まぐれ」を引くと、「思いがけず、ある結果になること。多くはよい結果になることについていう。偶然。」、あるいは「偶然の好運にめぐまれること。まぐれあたり。」とあったので、「偶然」という言葉にも疑問を持ったようです。

 常日頃、「偶然はない」と言う私に説明を求めたのでしょう。「結果が生じるには必ず原因がある」が、「ただその原因がわからず不明な場合に『偶然』と説明されることもある。逆に原因はわかっているが、その結果を生んだ原因として称賛等されることを避ける場合にも用いられる。不明を隠すときにも、謙虚さを示すときにも、『偶然』が使われる」。「この記事では、おそらくその監督は野球に関しては選手を褒めることがないそうなので、後者だろう。やはり、スラッガーの打撃成績は積み重ねてきた練習の成果であり、努力の証である。よって『実力』として称えるべき」と答えました。

 この問いに答える間に二つのことが思い浮かんでいました。

 一つは仏教の因縁果報の教えです。自分を取り巻く現実―自分自身を含めてーは、自らの行い、つまり仏教の言葉でいうと身口意の三業(発した言葉、行動、思い考えたことの果報)によって構築、形成される。とすると、晴れの舞台で素晴らしい成績を残せるのは、まさにそれまで自らを律して練習を重ねて努力した果報なので、それはその人の「徳」である。自分の行いが幸運、不運を決するのだから、自分を律せずに他人を批判しても幸運は生まれない、と。

 もう一つは「ギャンブラーの破滅」です。『ロストワールド』の数学者マルコムが、恐竜たちに追い詰められた状況で、これをわかりやすく説明していたのを思い出していました。コインの表裏を当てるという単純な賭け事を何度も繰り返して行った場合にその賭けはどうなるか、数学の確率の問題として実験がなされたところ、確率では、表か裏なのでイーブン、長い目で見れば差引ゼロのはずである。だが、自分がギャンブラーとしてこの賭けに参加したならば、長く賭けを続けると必ずギャンブラーは負けるという結果が出ています。

 「長期間におけるギャンブラーの勝率をグラフにすると、勝ちだせば一定期間勝ちつづけ、負けだせば一定期間負けつづけることがわかる。ものごとには波がある。それは現実に起こる現象であり、そこらじゅうに見られる。」「いったん事態が悪化すれば悪い状態はつづく傾向にある。」「悪いことはたてつづけに起きる。ものごとはもろともに悪化する。それが現実のありようだ。」、と。

 恐竜に取り囲まれたなかでは事態が悪化してきているから、これから起こることはさらに碌なことではないというのがマルコムの予測でしょう。

 確率論では、悪いこともたてつづけに起きますが、良いこともやはりたてつづけに起きるのです。そうすると潮目が変わるときにどう対処するかが問題です。ギャンブラーは勝ち続けているとまだまだ勝てると賭けを続け、負ける。負けを取り返そうと思って続けて賭けにでますから負け続けてしまい、破滅する・・・となっては困ります。ギャンブラーではないですから、大丈夫ですよね。

 次回はこの続きです。テーマは「感謝と感動」です。

 


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