第19回  雨降って地固まる

 ロー・スクールで教鞭をとる教授から、「社会にはさまざまな思惑からフェイク・ニュースがSNS上に溢れ、大量の情報から真実を選び出すことが至難の業になりつつある、そのなかで社会はこれまで経験したことのない問題に直面することになるだろうが、それに適切に対応すべき法律家を育てるにはやはりソクラテスメソッド? でも、このメソッドはすっかり廃れてしまったけれども、復活させることはできるのか?」と尋ねられました。

 この質問に答えるには、ソクラテスの問答法の特性を知ることが肝要です。その特性を知れば、教育法としてなぜ廃れた(?)のか、その原因も予測がつきます。

 ソクラテスは、人間の賢明さは自らの無知を自覚することに気づきます(無知の知)。それは、ソフィスト等を相手に無知の仮面をつけて、その自説を述べさせながら、「とは何か」の質問を繰り返し、ついには矛盾に引き入れ行き詰まらせ、その知識の空しいことを露呈させるなどするなかでの確信です。知識は、所有する者から所有しない者に手渡される物品のようなものではなく、各人がすでに自分自身のうちに可能性をもって所有しているものですが、しかし、自分の力だけで生み出すことは困難であって、この知識を生み出すためには他の援助を必要とします。知は想起なのです。ソクラテスの対話はその援助であって、「助産術」と自ら称しました。ソフィストは、意見を戦わせて、一方のものをして他方のものを打ち負かしてしまいますが、ソクラテスはたがいに対立する意見でも、その中にどこまでも共通のものを求め、最後に普遍的定義に到達することを期待している点に特徴があります。

 ソクラテスは「徳は知である」とする一方、「徳を教えることはできない」とも述べています。当時の「徳」は、倫理的なものだけではなく、建築や弁論などの技術における有能さや卓越さも意味していました。技術においてはその有能さはそれにつき正しい知識を有することですから、これを人間の生活一般に拡げ、生き方につき正しい知識を有する人間が有徳な生活を送ることができるとします。正義の理論を知ることと正しい人になることとは明らかに違うことから、ソクラテスが言う「知る」とは単に知識として頭に入れることだけではなく、それに基づいた行動を起こす心の転換を伴うことです。心を転換して有徳な行動をとることができなければ「知った」とは言えず、無知なままです。

 ソフィストが教える弁論術のように、技術を知ることは頭で理解すれば修得できますが、主体の心の転換を要しないので、誠実な人でも狡猾な人でも同じように弁論術を修得できます。ですから、教えることができるのです。しかし、心の転換を要するとすれば、その主体自らが行うことなくしてはなしえないことですので、教えることはできません。ソクラテスは、自分の思惟の活動によって生み出した知識のみがその人の真の知識であり、その内面的自覚をもって行動に移す心の転換を果たすことを「知」に求めるのです。

 ソクラテスもおそらく対話を通じて確信を得て、人間が知るべきことがあるとして市民に対する問答を繰り返すという行動に邁進したのでしょう。

 次回は、雨降って地固まる(2・終)です。


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