第20回  雨降って地固まる(2・終)

 法科大学院のみならず、多くの教育機関において、授業における受講生の積極参加を促す教育方法が非常に高く評価され、さまざまな教育技法が開発され実践されています。それは大変貴重なことです。多様な受講生がいろいろな教育の機会に触れ、そこから刺激を受けて、自ら知性を高める努力をすることに喜びを感じられるようになるのであれば、それは何よりの教育成果です。

 法科大学院制度の創始期にはソクラテスメソッドがその教育の象徴のように言われましたが、現在では、ソクラテスメソッドという対話を通じた問答法は「廃れた」と言っても過言ではないでしょう。廃れてはいないという意見があることはまさに歓迎すべきことですが、現在ソクラテスメソッドと呼ばれている手法は双方向での質疑応答にすぎないように思われます。ソクラテスの対話は、相手の正しい考えと正しくない考えとを区別し、本質と非本質とを分かち、1つの観念を他の観念によって補充・修正して、相手がその内に秘めた真理を自分の力で生み出すようにする「助産術」です。ソクラテスの問答法は、対話における意見の交換と修正を通じて、個々の事物からその本質を示す普遍的概念(定義)を引き出すことを目標とします。

 しかし、多くの双方向授業は、知識の授受が質疑を通じて行われ、予習等の学修の結果を確認する、次いでその知識を使う、深めることは通例講義形式で補われています。そこには「助産術」は見えません。これは、授業で取り扱うべき事項がその内容とレベルを最低限保持するよう求められること、授業時間には限りがあることなど、多くの客観的な制約により、質疑応答の手法にとどまらざるを得ない結果かと思います。しかし、客観的な制約があるにしても、質疑応答では問いに対する正しい解答を即座に出すことが重視され、学修の成果は正しいか否かの二者択一に収斂するおそれがあります。それは学ぶ側の関心を引き出すレベルでは一つの試みとして有益であるでしょうけれども、その観点のみでの学修は、ソクラテスの目指した、主体の心の転換を生み出し、知識を自らの行動に示すことをもって「知った」とするレベルには至らない「無知」のままです。しかも学修主体はそれに気づいていないと思われます。それは、ソフィストが弁論術を知識として教え、意見を戦わせて相手を打ち負かすことに自己満足を得るのと変わりがないでしょう。

 自らが内面的自覚に基づく真理の発見を経験し心の転換を実践した主体のみが、他人にその体験を生み出すよう導けます。そのような体験をする機会が教育の場に創られることが重要なのです。そのために教壇に立つ者は心の転換を伴う知識の修得を意識し、自己の内面に起こった真実の発見を通じて、教育においてその実践をなすことが求められます。この知識の修得経験がさまざまな未知の問題を解決する智慧を生み出す源泉だと思います。教える側に知識偏重の意識のみがあれば「知った」ことを経験させることがなく、その経験の喪失とともに、ソクラテスメソッドは消えていくでしょう。自戒を込めて。

 最後に、入江波光画伯の言葉です。
「知っていることと、創ることとは無関係です。
 1つのこころみは、けっして、1つのみに終わることなく、それをきっかけに、それからそれへと、つながりをよんで新しい世界を見せてくれます。
 体得の中から、識る世界を、ひろげ、深めて、学ぶべきだと思います。」

 次回は「敬虔と跪拝」です。

 


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