第26回  学修の喜び

  ご無沙汰をいたしました。1ヶ月振りのコラムの更新です。1月下旬に風邪を引き、完全に休めばいいものを、無理をしなければ何とか対応できると思って続けたために、体調を崩してしまいました。「何とかなる」との予測がそもそも無理筋のようです。何度となく学んでいるのですが、まだ身についてはいないようです。無理筋が通ってしまうと得るものが大きいとの感触が残るので、無理筋を無理と思わず押し切ろうとの欲が勝って傲慢な態度を取ってしまいます。しかし、その無理筋や傲慢さが正されたときには、取り返しがたいダメージを受け、立ち直れる場合であってもかなりの時間とエネルギーを要するでしょう。

 囲碁では上手は下手の無理筋を決して許さず、厳しく咎めてきます。私に囲碁の手ほどきをしてくださった方は、私が読みが足りずに無理筋を打つと、何となく嬉しそうでした。打ちのめされた後には、その嬉しそうな様子が「人が悪い」としか思えませんでした。その様子をもう見たくないと誓って、必死になって勉強し手を読むようになりました。しばらくしてから、この時の対局の積み重ねによって、すこしは人並みの集中力のある読み(思考)ができるように鍛えていただいたことに気づきました。その時、漸く、その「人の悪さ」(を装ってくださったこと)をありがたく思うとともに、自らの成長に喜んだ覚えがあります。

 学ぶことは、その契機や促進剤はさまざまであっても、主体的な意識づけがなされた絶え間ない営みであると思います。目的の実現から意識づけを行い目的達成に一歩でも近づいたことを喜びとして学び続けるのも一つといいますか、むしろ、これが大学受験等に対する受験勉強の典型ではないかと思います。知識量が増えることで模擬試験の点数が伸び、希望大学合格の結果を得て、mission completedでしょう。その喜びはこの上ないものと思います。

 ただ、社会に出て活躍しようとする段階では、知識の獲得と蓄積だけでは足りないところがあります。知識は過去のものですが、進展する社会では新たな問題が生じています。新たな問題に知識を集め、論理的に組み立て、解決の方策を創出するには、汎用的なスキル(方法論)を修得している必要があるからです。スキル(方法論)の修得によって思考が洗練され柔軟性と創造性とを兼ね備えることができれば、その変化は、スキル(方法論)を修得する学びから得られた、能力そのものの向上です。鍛えれば鍛えるほど研ぎ澄まされるので、おそらくその向上には限界がありません。

 学びは自らを本質的に変えるのです。知識の量的拡大による目標達成へのアプローチは、数字という外形的・客観的な指標で示せるがゆえに、便利です。しかし、そこに努力の成果を求めるのは見易さだけに引きづられているのではないでしょうか。学びによって自らが変身していくことに、より大きな喜びを感じてほしいと思います。学ぶことの価値を矮小化して学ぶことから自らを遠ざけることがないように。

 そのためには、自らの資質や能力の変化に気づく自己省察が必要です。最近、立花隆氏が書かれた新書を読んでいて、「文章力は基本的に自己を見つめる力に比例する。内省力といってもよい。」との一節が強く印象に残っています。良きにつけ、悪しきにつけ、人は自分の変化に気づきにくいところがあるようです。そこに気づきコントロールできることが文章を磨くことにつながるのかと思います。

 次回は「誤解」です。


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