第33回 心に残る言葉

 最近,古い友人が出展している美術展を訪ねました。彼の写真は,多くの素晴らしい絵画や彫刻などの作品に埋もれることなく,異彩を放っていました。彼の写真は,その光景に取り込まれた,花,緑,流水,岩肌や光,自然の要素が一つ一つそれとしての生命の息吹を最も美しく放ちつつ,ハーモニーを生んでいるのです。心が洗われ,禊ぎを受けたような感覚が今も残っています。健康状態に不安を抱えていますが,1枚でも多く,魂を浄める作品を撮り続けてほしいと願うところです。
 
 彼にはその作品からだけではなく,いろいろと教えられることがありました。鮮烈に残っている言葉が一つあります。それは仏教(法)やキリスト教の話をしていた際に,「仏教は仏陀になる教えであり,法なんだ。キリスト教で神になることは目指さないだろう。そこを忘れてはいけない」との指摘です。私が,ああでもない,こうでもないと考えながら話をしているうちに,私の言葉が仏陀をご供養することで功徳を願うかのような話に聞こえたのでしょう。知らず知らずのうちに思考の原点から離れてしまい,糸の切れた凧状態だったのです。彼はそれを極めてインパクトのある言葉で戒めてくれたのです。心から感謝しました。今も私のなかにずっと残っています。
 
 思考も論理も,それが展開するテーマの原点を見失うと,どれほど魅力的なものに見えても,他人を惑わすにすぎない虚仮の議論でしかないと思います。数学の座標問題ではないですが,原点を離れてうろうろしながら問題を発見したり解決策を検討しても,問題がどの象限にあるのかも正確に把握できていなければ,問題の属性も十分には掴みきれないため,その解決法は信頼性が疑われるでしょう。

 原点(出発点)を見失った解決者は,自らの存在位置を原点と捉えがちです。解決者自身が中心となりますので,自らが合理的であると考えるか否かを基準に,その思考の枠のなかで問題が分析・評価されることとなります。先人の教えも解決者自らの枠のなかに閉じ込めてしまい,本来の価値よりも低く見積もってしまうこともあります。そうなると,先人の智恵からより多くを学ぶことができません。自らの智恵を問題解決に届かせることができれば何とかなるでしょうが,原点を見失う思考癖があることからすると,そのような期待がはかなく終わるとの覚悟は必要です。

 そうなると,問題を目先のことで捉えて小手先の解決策を講ぜざるをえません。問題の本質的解決がまだであることを自らに意識づけし,智恵を磨いて解決策を創出できるように努めなければならないでしょう。それを怠れば,問題の解決を先送りにしたメリットを失います。時間の経過により問題がより深刻化してしまいかねず,深刻化していればより智恵の働いた解決策を生み出し実行しなければならなくなります。それは厄介です。

 もう一つ,心に残った言葉です。入江波光画伯の言葉です。

 自分に,あまり固執してはいけない。
 成長と創造のない苦しみに,自分を追いやることになるから・・・。
 気前よくすべてを放りだすことによって,自分が鍛えられる第一歩が始まる。
 (足立美術館『画談 日本画家のことばと作品』56頁)

 次回は「飛躍」です。


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