第34回 飛躍

 囲碁で気分転換しようとすると、一手で局面ががらりと変わることがあります(気分転換にならないのですが……)。定石や手筋とか既存の知識に乗っかって数手先まで読んでいることもありますが、やはりその一手をその場でその時に考えることは不可欠のようです。それは当たり前のことなのですが、この手に集中して考えるよりもその前に打った手にこだわってしまって、あるいは相手の応手に惑わされて、つまり過去に囚われて、今、目の前の局面において自分の打つべき手を考えるべきところに心あらずとなり、その一手で局面を悪くしてしまいます。この一手に集中しなすべきことをよく知り、それを実践することが大事だと痛感します。

 縁起の法を学んだ時も、すべてが因縁果報の繰り返しで展開していくから、良い「因」が良「縁」と結び良い結「果」を生み、良い「報」いを受ける、逆も真なりと理解しました。その学びが「いま」に集中してなすべきことをなすという行動につながりません。「因」が過去における因縁による果報であり、今それに悩まされていると反省します。

 しかし、翻ってみれば、今現在なしたことがすぐに過去となって新たな果報へ、因縁へとつながるのであれば、いまこのときに良いことを行っておけば変化のタネをまくことになるのではないでしょうか。過去に囚われれば、囲碁と同じく、局面を悪化させ、負のスパイラルに陥ります。いまこの瞬間に良き果報を齎す行為を選択できるかは、知識ではなく、智慧だと思います。知識では思い起こしている間に時宜を失してしまいますので、この瞬間になすべきことをなさせるのは智慧でしょう。仏法が智慧獲得を目指すのもそのためではないかと思います。

 智慧を獲得するまでは、他人に感謝されることを行うことを行動の選択ポイントにしておきます。目の見えない修行者が、縫物をしようとして、針に糸を通してほしいと周りに声をかけた際に、すぐにその針と糸を取って通したのは釈尊でした。その修行者は大変恐れ多いことと思い、修行者に徳積みとしてお願いした旨を述べたようですが、釈尊はこれに徳を積むことを最も愛するのは仏陀であると答えられたとの法話があります。その行動が良いか悪いかを判断するのが難しいので、何も考えずに徳を積むことを選ぶことを説き、自らも実践しておられたのでしょう。

 過去の因縁に囚われその果報でがんじがらめになっているのに、その自分が納得しなければ行動を起こさないというのでは、それがいくら合理的な態度だと言っても、所詮因縁の塊がその因縁の枠のなかで自己満足しているにすぎません。これまでの結果なりに満足できないというのであれば、その結果を生み出した自分の因縁を超えること、おそらく納得しがたいことを実行することで変化を生むと思います。何かを変えたいと真に思うのであれば、現在の自分が納得する枠を超えて飛躍する、そしてやってみるしかないでしょう。

 最近はやりのイノベーションとかさまざまな改革も、理論や理屈を先に出さずに自らの考えの枠の外に飛び出してこそのもので、まさに飛躍のうえに成り立つと思います。

 先生は教える何かを持っているから学生に対してその立場にあります。その何かは学生が飛躍すべき時にその飛躍に最も適した「すべ」であり、身をもって実践しつつそれを伝えられるようありたいと思います。そのために学び続けなければなりません。

 次回は「二の矢」です。


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