第35回 二の矢

 旧約聖書のなかに「知識の集積は知恵にならない」という一節があります。確かに、知恵のある人を「賢人」と称し、知識を集積して多くを知っているにすぎない人を「もの知り」と言い、知恵と知識は区別されているように思います。

 最近の新書で、ハーバード大学名誉教授の廣中平祐先生が学生から「勉強してもどうせ忘れてしまうものをなぜ苦労して勉強しなければならないか」と問われると、「それは知恵を身につけるためではないか」と答えることにされているそうです。「学ぶことの中には知恵という、目に見えないが生きていく上に非常に大切なものがつくられていくと思う」が、「知恵はきわめてあいまいなもので容易に分析し難い」と述べておられます。

 確かに、人が生きていくうえで必要なのは智慧であって、知識そのものの多寡ではないと思います。なぜ苦労して勉強しなければならないかの問いに、先の楽を得るためと答えると、それはおそらく嘘になります。いい仕事に就けるといっても、その仕事を遂げるには勉強以上の苦労が伴うでしょう。それではずっと苦労ばかりです。学ぶことで知恵が身につくのであれば、それは今この時を楽しみに変えることができるでしょう。この勉強からいかなる知恵をどう身につけられるのかを考えてみても愉快です。

 勉強は思うようにならないから「嫌だ」と思って、「苦労して勉強」という言葉になるのでしょう。人は経験を通じた知識の記憶からその身を守ることができるので、勉強による多様な知識の集積を嫌うとは思えません。嫌だと思うのはまさにこころではないでしょうか。こころは放っておけばその好きなことばかりに赴いて妄想を抱かせ、しかもその動きがあまりに速すぎるので、その奔放な動きに自らが翻弄されていることに気づくのが遅れ、感情を剥き出しにしてしまいます。成績は良くても、怒りっぽかったり、わがままで人に思いやりがなかったり、嫉妬心をすぐに表に表したり、自尊心が高すぎそれを正面にあらわす、人のあやまちに寛大さに欠ける、猜疑心が強い、批判ばかりしている、人の心を傷つけるような言動をして平気でいる人も間々見られます。自らのこころの動きに翻弄される姿に気がつかないのです。それでは生きていくのも大変でしょう。

 知恵は、発達した頭の働きとこころの熟成とがバランスよく整っていることをいうのではないでしょうか。現代社会は多種多様な情報を得るのに非常に便利であり、知識の集積に困ることはないのですが、それで頭は発達しても、こころが発達するとは限らないのです。現代は知識過多の社会であると同時に、知恵喪失の社会なのかもしれません。こころの未熟さが、感情をむき出しにしてしまう、あるいは知識の活用をおさえてしまうのです。

 仏典から、釈尊の説法を2つ挙げます。1つは巷で流行っていた「一夜賢者の偈」を用いて説かれました。ここではその偈の一部を挙げます。

「過ぎ去れるを追うことなかれ。 いまだ来たらざるを念うことなかれ。
 過去、そはすでに捨てられたり。 未来、そはいまだ到らざるなり。
 されば、ただ現在するところのものを、 そのところにおいてよく観察すべし。
 揺ぐことなく、動ずることなく、そを見きわめ、そを実践すべし。
 ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。」

 ではもう一つ。釈尊は機を見て法を説かれるのですが、お弟子さんたちに質問をされることも多くあったそうです。

 釈尊が弟子たちに「仏弟子もしからぬ人も、楽受をうけ、苦受を受け、非楽受非苦受を受けることでは変わらないはずであるが、では、仏弟子としからぬ人とはどこが違うのか。」と質問された。そのとき、「まだ教えを聞かぬ人々は、苦受を受けると、嘆き悲しんで、いよいよ混迷するに至る。それはちょうど、第1の矢を受けて、さらに第2の矢を受けるに似ている。すでに教えを聞いた人は、苦受を受けても、いたずらに嘆き悲しんで混迷に至ることがない。それを第2の矢を受けずというのである。」と説かれた。

 次回は、「いま、何を(勉強)すればよいでしょうか?」です。

 


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