第36回 いま、何を(勉強)すべきでしょうか?

 この質問を受けることが時々あります。かつては何を今更と思うことがあったのですが、最近は質問するだけ偉いなと感じます。

 やみくもに色々な情報源から得た勉強法からこれはというものを試し、そのうち成果が出るだろうと期待して、あるいはすでに成果が得られていると確信して、頑張っていると、なかなか他人に意見を聞こうとは思わないようです。勉強しているのだからいいでしょ、多くの法的知識も集積していて短答問題もすらすら解けるんだし、順調ですから、横から口を挟まないで、という人を寄せつけない空気が張り詰めています。

 そういう状況では個別に声をかけてもまず聞いてもらえないので、全体に対して、いま皆さん頑張っていると思いますけど(、猪突猛進でも困りますので)、こういった点をチェックしてみましょうねと、個々の具体的な状況を踏まえた例を挙げながら、アドバイスを贈ることにしています。それで聞いてもらえるかといえば、やはり微妙ですが、手を拱いて見ているだけというのも無責任に思えますし、勉強は本人のことだからと達観することもできません。ささやかな抵抗です。

 振り返りが不十分だと思います。勉強するのは頭を良くすること、柔軟で創造的な思考ができるようになることを目指しているのであって、試験に合格することは必要ではあっても目的ではないでしょう。試験で一定の成績を上げるにはひたすら知識を集積することで対応できることも多いのです。知識を追い求めると、知っていることに自分の判断基準が移っていきます。知識があることで知っていると思い、それを理解しているとの錯覚を生むのです。知識があることが仇となって、理解しようとすることを阻みます。

 勉強をこなしていくことがハードになるのは、知っていてもわかっていないと気づいた時です。そこからの工夫から学びを体得します。学びつづけることでプロフェッショナル性も得られます。そのプロセスで実践し修得することが、知性を練磨する方法であり、自己省察の癖を付けることになるからです。

 意識的にか、無意識的にか、ハードワークになるのを嫌って知識の集積のみに走り、頭を良くする、能力を高める機会を逃していることも多いように見えます。何事も効率性と迅速性で割りきっているようです。能力を伸ばす機会はまた来ると思っているのかもしれませんが、その時の自分が恵まれる機会は一期一会だと思っておく方がよいと思います。それだけの覚悟をしてこの機会を見送り、次の機会を待つと心に期すべきです。

 さて、今なすべきことです。これは具体的に定まっているはずです。自分の想いや思考が過去に捕われず、未来に遊ぶことなく、現在を直視しそこに集中しているのであれば、なすべきことははっきりとしています。今なすべきことをなさず、何をすべきかと思い悩んで、時を徒過してしまうのは、怠惰なのか、あるいは妄想に捕われているか、いずれかのためのようです。しっかりとブレークダウンさせて具体化させれば、必ず、今成し遂げることができます。そのブレークダウンさせる対象は何でしょうか? それが漠然としているときに、「今、何をすべきでしょうか」という疑問に出くわします。今はそれを明確にすべき時なのでしょう。

 次回は「ステレオタイプの勉強法」です。


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