日常生活で何かを決断しなければならないときに、さまざまなツールを通じて色々な情報を取得できるがゆえに、膨大な量の情報に振り回されて、適切な判断を下せなかったり、時宜に適った判断を逃したりすることもあるようです。それを避けようとすれば、むやみに情報を求めることをやめてしまうか、あるいは膨大な情報から重要なものを選択する能力(=選別眼)をもって対応するかということになりそうです。
最近は、十分に解明されていない諸事情を考慮に入れて思考を組み立てることが面倒であるとして、これを避けるようです。一足飛びに結論を求めて、思考に時間をかけることに我慢できず、効率性と迅速性の観点から固定観念に基づく決断を下してしまう傾向が見られます。その際に、諸事情を切り捨てるあるいは収集もしないための道具が固定観念です。「これはこういうものだからこうする」というステレオタイプの判断を下すようです。これも、さまざまな情報を衡量する煩雑さを避け、意思決定に注入するエネルギーを低減させるとともに、たいていの場合に多くを説得でき、明らかなミス・ジャッジを招かないので、そう問題となることも、問題だと感じさせることもないのでしょう。
しかし、デメリットもあります。ある事項に関する個人的経験がその暗黙的な通念と一体化することにより、それに対して固定観念による判断がなされますので、本来、普遍性に欠けた思考がまかり通ってしまいます。少なくとも固定観念を検証しなければ、客観性も実証性も欠いたまま世界を自分に都合のよいように解釈して判断を下すこととなり、反知性主義に陥るのではないでしょうか。
最近の新書では、ステレオタイプ思考につき、「ステレオタイプ思考の桎梏から離れて自由な思考を展開するのが難しく」なり、「ステレオタイプ思考ばかりを使い過ぎると、思考がなまってくるし、頭も硬くなってくる」、「それに加えて、恐ろしいのは、見えるものも見えなくさせてしまうことである」との指摘がなされています。なかなか怖い指摘です。
この指摘が残念ながら正しいことを思い知らされる時があります。それは学生の答案を採点しているときです。授業時には、受講生にステレオタイプによる勉強を積み重ねてそれが通常の勉強法であるとの思い込みが見られる際には、その修正にかなりのエネルギーを費やします。少しは変わったかなと期待しつつ、答案を見て、「あらら、何の疑問も抱かずに刷り込まれた魔術はそう簡単には解けないな。」と痛感させられます。
とは言っても、あるべき姿を想像し、そこに向かって創造性のある柔軟な思考を積み重ねて、未知の問題にも対応できるような法曹の養成を目指すことからすれば、ステレオタイプの思考法はまったく正反対な学修態度です。これを打ち破ることが求められます。
先の新書では、ステレオタイプを時折棚卸しすることで世の中が新鮮に見えてくるとして、その具体的方法に、①他の人のステレオタイプとの比較、②ステレオタイプが真理ではないかもしれないことを学問的・科学的に追求してみること、③ステレオタイプにあわない例を探すことが挙げられています。これらは法曹を目指す際にも試す価値があるでしょう。基本原理・原則、判例や制度を、そこに立ち返って考え、使えるように、それらをより深く理解してもらうために、比較の手法を用いることがあります。その際に抽象的な法概念を指摘して思考が止まってしまい、それ以上の解析はお手上げになってしまう、具体的事実を慎重かつ丹念に追いつつ整理することが苦手で、事案の違いを浮き彫りにできず、知っている判例の範疇に取り込んで結論を下してしまう傾向が見られます。
唯一の正解である結論と思い込むことで迅速に思考を切り上げることに狎れてしまい、一つではない結論を導く思考のプロセスやそのためのフローチャートに乗ることも面倒であり不安なようです。どうせ自分ではできないからと受験勉強の習い性でトレーニングの前にあきらめてしまっているのではないでしょうか。それが思考の鈍りであり、頭がかたくなっているのであり、見えるものが見えてこないという、ステレオタイプ思考の弊害であると思われます。
次回は「成功への道筋―いまなすべきこと」です。