第43回 いにしえに学びしこと③

 法科大学院は法曹になるために必要なことを学べる場でなければならない。紛争解決のための専門的な法知識はもちろんだが、それをどのように見つけ、いかに創出し、目の前の紛争に使って妥当な結論を得るのか、そのメソッドとプロセスを習得させることが重要である。そのために、教える者はただ知識を提供するのではなく、ソクラテスメソッドやディベート等を教育手法に取り入れて、対話の対象である受講生に気づきを与え、自らがそこから進展する努力のきっかけ(糸口)を与え、道を切り開くのを見守ることができなければならない。法曹に必要な資質である批判的精神や互助の精神、さらに集中力、緊張感や礼節などもその場のもつ空気で伝えられなければならない。

 専門職を養成する学びの場ではそれに必要な資質や能力を習得させるのは当然だと思っていましたが、どうもそれだけではなく、法曹への道を歩むのに人間としての成熟度を高めることも必須だと考えておられたようです。学びのなかで、気づきの喜び、その気づきから新たな導きを得る楽しみと苦労、作る端から崩れていくなかで確かなものを発見するプロセスの体験などを知っていくのでしょう。

 教える側からすれば、先回りしていろいろある障害を取り除き歩みやすくしておきたくなるのですが、それでは学ぶ者を真に鍛えたことにはならないのは明らかです。障害など生じないと断言できるのであれば別ですが、障害が現に存在しこれに出くわしたときに簡単に折れてしまう精神を持たせては不幸を招くようなものに思います。教える側には語るべきことと語らざることとがあり、後者は学ぶ者が問うてこそ答え語るのでしょう。学ぶ者に問うことができる自信を持たせることこそが必要です。これが一人一人違うので難しく、小さなミスを繰り返しながら自省し、新たに学んでトライすることの繰り返しです。

 教える側と学ぶ側との関係に応用できる興味深い話を聞きました。ある俳優が結婚するときに父親から言われたそうです。

 結婚したからといって夫婦になるわけではないんだ。親子や兄弟でさえ、喧嘩もする、所詮は他人だ。
 夫婦はなおさらだ。
 夫婦になったと思っていると、相手の足りないところばかりが目に付いて、引き算ばかりを始めてしまう。
 それでは不満ばかりがたまって、お互い不幸だ。結婚はこの時から二人でよい夫婦になろうとの約束だ。
 二人で言わずとも同じことを考えることができるようになったね、とか、足し算を重ねていくんだ。
 そして、二人がよい夫婦となり幸せになっていく・・・。

 その俳優の父親は、その俳優が子供のころから、子供にわかろうがわかるまいが、自分の言葉で理由を言って叱っていたそうです。その俳優も、大人が子供目線で説明することよりも、父親の言葉が心に残っていると言っていました。

 法科大学院に入学あるいは在学する学生も、法科大学院で学習すれば何とかなるものとどこかで思っていて、成果が上がらなければ引き算思考を始めることが時々見られます。何でもかんでも教え込んでくれることに狎れています(他の法科大学院の先生が「黙って座っていればピタリと合格できる」授業を求めているとしか思えないとこぼしておられました)ので、学びを自らが生み出すことを求めることが批判・非難の対象となると考えているように思います。少し自分で考えてみる、仲間と話し合ってみるという時を持つことも必要ではないでしょうか。そのうえで、腑に落ちなければ問えばよいでしょう。教える側が確信をもって行っていることであれば必ず回答は返ってきます(ただそれもすぐに理解できるものかどうかはわかりませんが・・・)。
 
 「考え、問い、また考える」なかで、共有できるものが生まれてくるでしょう。それは単なる知識の授受だけでは経験できないところだと思います。

 平成最後の年も残すところが少なくなりました。振り返ってこの一年はいかがでしたでしょうか、いろいろな出来事や現状に言いたいこと、思われることはあろうかと存じます。2018年が最後の最後に有意義であったといえる想いをこの1週間で抱けますように、そして、新たな年を迎えるにあたり、皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 次回は「新年の抱負」です。


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