第47回 察する

 2018年度修了生への学位授与式が先日行われました。司法試験が間近に迫っていますので、喜びも半分、緊張感が勝って、気もそぞろという印象でした。さほど嬉しそうに見えないのが気掛かりです。

 2,3年間ずっとハードな学修をこなしてきたことに対して、自らを誉めることも大事です。誉めることが自らの能力を伸ばすエネルギーとなります。ここまで来れたのだから、これからもやれると自信を持ちましょう。誉めることや感謝することが、まだまだという言葉が持つ閉塞感を打ち破ってくれ、逆にその言葉が力強さを漲らせてくれます。
 
 他人によるマイナス評価は乗り越えることができるのですが、自らが「自分はできない」「自分はまだまだだ」と思うことで制約を課している場合には、自縄自縛のゆえに動きが取れず、自分でその能力を立ち枯れさせてしまいます。「伸び悩んでいるように思うのですが、何とかなりますか」という相談では「こんなことをやってみたら」とアドバイスすることがあります。しかし、「自分はまだそんなレベルにはありません」との回答またはそのような雰囲気を強く醸し出す態度がしばしば返ってきます。謙虚さが許される場面であれば奥ゆかしいのですが、むしろ現状を打ち破る節目では、新たな練磨方法で自分の幅を広げるチャンスなので、謙虚さが美徳とは思えないのです。「それじゃあ、何時そのレベルになるんだい。そう言ってやらない理由にしているのでは?」と言いたいところを我慢して、「まあ、変化も必要だから、やってごらんよ」で止めます。意外と勉強法に頑なことも多いので、強く言うと反発を買って、次の機会を失ってしまうかもしれないと危惧するからです。
 
 こういう相談には2つの特徴が見られます。1つは超近視眼的な思考に陥っていることです。もう少し長いスパンのなかで目標を捉えれば、当面の(あるいは目の前の)目標にどうアプローチするかを考え工夫をすることができます。真の目標がリアルに見えてくることにより行き詰まっている自分を救う手立てが与えられ、将来の財産になることもわかると思うのです。
 
 もう一つは、教える側や勉強仲間から、基礎知識が足りないなど指摘されていることです。確かに基礎ができていないのかもしれませんが、それを指摘しただけでは何も変わらず、落ち込ませるだけです。足りないことで悩むと、これで十分であるとの判断にはなかなか至りません。いつまでも基礎知識を覚えようとするため堂々巡りしてしまいます。
 
 特に教える側がそのような指摘をするのであれば、その学生のために基礎知識を定着させる方法をアレンジしてあげて、その学習の成果が出るまで見守るべきでしょう。教える側に立つ者自身が、結果だけを見て、出来ていないことからその不出来の理由を探すとき、不足の指摘だけをするのは、単なる逃げ口上か、超近視眼的思考に陥っているからではないかと思います。いずれにせよ、学ぶ者の力を削いでしまうでしょう。
 
 反発を生むだけの自己肯定感がどこかにあれば、低い評価をする他人を見返してやろうとか、前進する意欲が生まれますが、それがないと自己嫌悪に陥って前に踏み出す歩みを止めてしまい、殻か壺かのなかに閉じこもってしまいます。
 
 現状を正確に把握して対策を立てることが重要です。その際にいかなる観点で考えるべきかの視座と方法があるのかを気づくこと、教える側では気づかせるよう導くことが不可欠です。ある視点からは明るい展望が描けないとしても、異なる視点が設定できれば、窮した状況を改善するアイデアを思いつくこともあることは体験済みではないでしょうか。そういう体験をし、それを考えて、変化を生む経験として取り込み、次に生かしてほしいのです。
 
 模擬法律相談を課外で継続的に経験するように指導していることは以前にも紹介しました。これも、法曹への実践的訓練というだけではなく、経験を智恵として活かすことの学びの場です。
 
 クライアントから話を聞きながら事実を取捨選択し事案の内容を把握していく過程も、紛争における問題に対して法的解決策を提示し理解してもらう過程も、生身の相手ゆえにかなりの緊張を味わうようですが、なかなか楽しそうです。ある種の優越感を感じることもあるようで、法曹になるという志が高まっています。それゆえ、日々の勉学に忙殺され若干嫌気がさしている学生や学修のあり方が気になる学生等々に奨めています。
 
 模擬法律相談を用いた学修フォローも3年を経過し、これに自主的に取り組み継続してきた学生が初めて本研究科を修了することとなりました。やってみようと決めて最後まで続けたことは賞賛に値します。学んだ多くを活かして、さらなる飛躍の機となる成果を得ることを期待しています。
 
 次回は「付加価値」です。

 


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