第51回 紛争解決の先の平和観

 「世界平和を実現しよう。」「戦争で多くの命が失われること、多くの人生が損なわれることはあってはならない。戦争は絶対にいけない。」との思いは人として共通の願いであると思います。特に広島は、長崎、沖縄とともに、その訴えが真摯に世界の人々に届くと言われていますので、世界平和を訴え続けその実現に邁進しなければ、先の大戦での数知れない犠牲者の念いに応えられないように思います。

 世界が真に平和であるという状況は、国や地域から、企業や学校などの組織や集団、さらに家庭という「世界」を構成する人の集まりにおける安穏が実現されることで生み出されるでしょう。二人が一つの空間を占めれば、二人の関係性の構築が求められます。二人の間には、相互尊重から無関心、対立さらには戦いまで起こり得ますから、この最小規模の集団における安穏を築く方法がより大きな集団における安穏を獲得するベースになると思われます。また、小さな集団が身近であれば、そこにおける対立や戦いがその集団を構成要素とするより大きな集団に対する不平不満を生み出して、その集団の壊乱を招く要因にもなりかねません。

 では、二人の集団における安穏はどのようにすれば得られるのか。釈尊の説法で非常に印象に残るものがいくつかありますが、その一つにヒントがあると思います。

 コーサラ国の国王がその妃に次のように問いました、「そなたがこの世の中で最も愛おしいと思うのは誰か。」と。妃はしばらく考えて「国王様には誠に言いづらいのですが、最も愛おしいのは自分自身です。」と答えました。国王はこれを聞いて、「そうか。自分もずっと考えてみたが、そなたと同じく、自分自身が最も愛おしい。」と答えました。しかし、それは釈尊の教えとは違うような気がするので、釈尊に直接伺ってみることとしました。

 釈尊は、国王からの問いに以下のように答えられたそうです。
 「人の想いは、いずこへもゆくことができる。されど、いずこへおもむこうとも、人は己より愛しきものを見いだすことを得ない。それと同じように、すべて他の人々にも、自己はこのうえもなく愛しい。されば、己の愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ。」

 また、釈尊は、別の機会に、国王が真に己を愛するとはどういうことか、己を愛せぬとはどういうことかを考えて得た結論につき意見を問われた際にも、以下のように答えてられています。
 「己を愛すべきものと知らば、己を悪に結ぶなかれ。悪しき業をなす人々には、安楽は得がたきものなればである。」
 
 国王と妃との信頼関係にまず驚かされますが、そのような関係にあるお二人であっても、最も愛しきものは己であるというのです。それぞれが自己を最も大事にしているにもかかわらず、相互に信頼し仲睦まじいのはなぜか。相手を害することなく、その身口意の三業において悪業を積まず、善業により自らに善果報を帰すのであれば自己を愛おしむこととなるとの釈尊の教えを実践しているからではないでしょうか。

 縁起の法による因縁果報の実践哲学が、日々の行動を通じて、身近な人との関係にその成果を見せつつ、修得されていたように思われます。
 
 個々の人が安穏な日々を迎えるためにその行動を変えることがその人の属する集団の状況を好転させ、その集団に属する一人一人の行いを変えていければ、安穏な家庭、組織、地域へと変化が積み上がっていく、それが個人や家庭の安穏、組織や地域の安寧、世界の平和へとつながるとの平和観だと思います。

 この平和観は時間軸を長く取りながら、自分自身に起こる微妙な変化あるいはその兆しに気づくことで、愛しき者が愛しき者になすことを自己になすことでの因果律の働きを感じとる努力を要します。自己を愛しく思うのであれば、自己をしっかりと観て、敏感にその変化に気づくことができるとともに、自己観察や自省から得られる経験知が、他害の禁止を実践する際に、相手に対する共感力を引き出すこともできるでしょう。
 
 この観点では、トラブルも関係者の因縁の持ち寄りと見ることができますので、それがどのような解決を見たかという結果よりも、そのプロセスにおいて自らを初めとしてどのような人が関わって結果に至ったのか、それを引き寄せる己があることを見定めることで、己を愛しむにはどうするかを考える機になります。
 
 これにより実践行動が一層洗練されると思います。短期的な観点での不満のために実践哲学をすぐに放棄してしまうことを避けられ、継続努力がもたらす変化に感謝する機会にも恵まれるでしょう。
 
 なお、釈尊の説法は、増谷文雄『仏教百話』(筑摩書房)を参照いたしました。
 次回は「時間との対話」です。


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