第53回 真剣を振る

 研ぎ澄まされたものを見ると極めて短時間であったとしても強く印象に残ることがあります。数年、あるいは数十年経ってからでもその時の映像や音などが克明に再現され、今、目の前にそれがあるかのようにいろいろな想念が浮かんできます。

 剣道に興味を持って竹刀や木刀を振る真似事を始めた頃です。夏休みに母の実家に遊びに行って毎日近くの海で泳いでいました。あるときたまたま庭の隅に木刀があるのに気づき、これを振っていたところ、祖父がそれを見かけてこっちへ来いと手招きするのです。祖父は剣道を始めたのか、なぜなのか、強くなりたいのかとかいろいろと問われ、木刀を振ると気持ちが落ち着くからなど答えた覚えがあります。

 そのうち祖父が突然立ち上がって納屋に行き、日本刀を下げて戻って来たのです。日本刀を突き出して「抜いてみろ」というのです。初めて日本刀を手にしたのですが、そのずしりとした重さと、何とも言えない無機質な感触に圧倒されました。姿勢を正して鍔元をしっかりと握って鞘から抜こうとしたのですが、まったくダメでした。腰が引けていたのでしょう。

 祖父はやおら私の手から日本刀を取って抜刀すると、私の眼前に白刃が来るように構えたのです。日本刀の美しさにまず驚いたのですが、その引き込まれるよう感覚に言いようもない恐怖感を覚えて全身が震えました。祖父は「振ってみるか」と刀を差し出すのですが、とても無理です。素振りをすれば間違いなく自分が怪我をするとの確信があったのです。すっかりびびっているのに、祖父はさらにとどめを刺しました。「この刀は使ったことがあると思うか」と問いました。使ったことがあるかって、それは人を切ったということか・・・? もう刀身など見ていられません。「参りました。刀をしまってください」と頭を下げると、祖父は「それでいい」と呟いて、笑いながら日本刀を片付けに行きました。海に入ったように全身が汗でぐっしょりだったことはその感覚も身体が覚えています。

 最近、亡き祖父とのこの対峙をふと思い出すときには、研ぎ澄まされた剣先の心景に「刃先にけしの実一粒も残らぬように、朝露が葉に残り貯まることがないように、その心に貪り、奢り、驕り、怒り、愚痴が微塵もとどまることなきよう心を磨け」との釈尊の言葉が重なります。

 研究においてもそのような経験をさせていただくことがあります。全身全霊が打ち込まれ、考えに考え抜かれた苦闘の様を辿らせていただき凄みを感じます。その鮮烈なる刺激が学びのあり方を変えてしまうこともありましたし、変えなければならないと決意することはしばしばでした。意を決してもそううまくは行かなかったのですが、それが単に多くを知り学ぶことの愉しさを超えて、研究の世界を覗いてみるきっかけになりました。自らが研ぎ澄まされた論考をまったく示せていないことはお恥ずかしいかぎりです。これからの課題です。ただ刺激的な研究に巡り会える時にご縁があったことには心から感謝しております。

 教育の場面でも、これまでの受験勉強や学校での学習の中でつねに正解があるという頑なな思い込みに出くわすことが多いのですが、これも物心が着く頃からずっと刷り込まれてきたがゆえに解きがたい結び目になっています。正解を得ればそれで安心でき満足するので、正解ゆえにあらゆる場面で通用するとの思い込みからより深い理解も要らなくなってしまいます。次々先に進めるので頑張ったように見えます。そのためにさらに正解探しに入れ込むわけです。

 でも、これは盲信でしょう。資格試験に対処するのに受験勉強の手法を用いるのは、一部を除いては、道のりを無用に険しくしているように思います。事案の解決が求められる資格では、解決のための規準に基づく事案の読みと手順にしたがった分析(思考)ルートがあるから、それに乗って解決の道を探し、支障があればその思考ルートを支える基本原則に照らして判断する思考癖が身についていることが重要です。ルートにきちんと従っているか、困ったときに立ち返って考える基本が理解できているかを自らチェックするのに研ぎ澄まされた力が求められ、プロセスから結論が得られる思考の安定性がまず第一とされるのでしょう。。けしの実一粒の邪心もなきように、これが身につくまで只管繰り返すことが事例演習の意義だと思いますが・・・。

 次回は「ひと休み」です。


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