勉学の方法は人それぞれです。専門職では、生涯、勉学を重ねて学びつづける必要があるのではないでしょうか。常に勉学をし学びつづけるためには、職責を果たす上でのリフレクションからより一層質の高い仕事を成し遂げることへの意欲は不可欠でしょう。できればそれを支える方法が自分に適合したスタイルで形成され確立していると、実践プロセスがスムーズに遂行され、求める(あるいは求めるところに一歩でも近づいた)成果が達成されやすくなるでしょう。
法曹はそのような専門職の代表ですから、司法試験や司法修習での2回試験が法曹養成プロセス教育の関門として置かれているのも、一定の成果を生み出せる学修スタイルが確立している(あるいは確立するであろうと十分に期待できる)ことを確認していると言うこともできるでしょう。法曹の資質や能力といわれるものも、学修の成果として獲得され、顕在化しているのでしょうから。
資質や能力を獲得する学修が、法科大学院でも司法修習でもブラッシュアップされるでしょうけれども、それまでに身につけた方法に縛られてそれを改善(場合によっては抜本的な差し替え)できないため、投入した時間とエネルギーに見合った成果に繋がらず、苦労する姿を見ることもしばしばです。そこに共通するのは、とにかく、理解すること、考えることよりも、覚えてしまうことを、意識的であれ無意識的であれ、優先するという学習傾向です(覚えていれば理解していると錯覚している?)。覚えて終わりというのは迅速で効率的な学習であって、それで獲得された知識を千差万別の事例に画一的に当てはめて、一応の結論が得られれば、それ以上の追究は無駄だとしてしまっているようです。もちろん、記憶重視の勉学がその成果を発揮でき学修スタイルとして成立しているのであれば、それをシャープにする方法などの助言で良いでしょう(本人を不安にさせたり混乱させるのが目的ではありませんから)。
専門職として職責を果たす資質や能力の獲得・錬成方法は、芸事を習うのと共通するところが多いように思われます。習い始めの生徒には先生の教え方が大きな影響を与えます。良い先生が指導すれば生徒は基本を大事にして几帳面に実践するけれども、そうでないと悪い癖がついてしまうそうです。いったん悪い癖がつくと、生徒がいくらうまくなりたいと言っても、それを取り除くだけで一苦労だそうです。芸事を始めるときは先生をよく観ることが大切だと言われる所以です。
教える側からすれば、教わる側に、勉学・学修の方向付けを行い将来的にその成果を限定させかねない影響を与えることに留意して、教えるべきこと、教える方法、及び学びを確立させるプロセス等をしっかりと吟味する、そして、その方法を実践するための十分な準備等をすることも必要でしょう。教える側は、教わる側が伸びて、自らが望むことを成し遂げられるように、人材育成プロセスのそれぞれの段階で「基本」として大事にすべきことを、教える上での御都合主義に流されることなく追い求めて、徹底的に修得させなければならないでしょう。
法曹養成において「基本」とされるべきことの一つに、本を読むのは他人の頭で考えることに終始しがちです。本から学ぶためには、論理的帰結や理由・根拠を問いながら論理構造を解析し、その適切性や妥当性を自分で確認する(その論理の展開を予測する、さらに疑問を抱く、批判するなど)ことがあります。おそらくそれが自分の頭を使って本を読むということでしょう。
自分に与えられた問いに対して、他人が書いたものを鵜呑みにしそこから回答を抜き出すことで、問いに答えた気になっているのは、初学の段階では大目に見られるかもしれません。むしろ、そこで満足するのではなく、回答の質を問い、その改善から自らの学修の質を向上させることに学びの主眼が移っていって欲しいのです。
将来必要なときに質を問う努力が妨げられることにつながる学修指導は、悪しき癖をつけてしまうものとして、排除されるべきです。これを放置すると、学び手は答えとおぼしきものがある資料がなければ対応できなくなります。自分で出発点を決めそこから論理展開をさせる作法を学んでいないので、新たな問題にはお手上げ状態で回答を諦めてしまいかねません。解決は所与のものに乗ってそれに制約されたところにとどまります。創造的な解決を生み出していくことへの期待は急速に萎んでしまいそうです。
険しく難しい山であっても、名ガイドがつき、その示すところの登頂の具体的方法を実践できるのであれば、登頂は可能であると言われます。指導者が具体的な学修方法を経験の裏付けのもと持っているか、それに基づき学び手に合った方法を示しているかを観きわめる必要があるでしょう。
とは言っても、山を登るのはあくまで自分の足です。お忘れなく。
次回は「ソクラテスメソッド」です。