第57回 ソクラテスメソッド

 法科大学院の教育を特徴づける手法の一つが、いわゆるソクラテスメソッドです。

 申すまでもなく、ソクラテスが、古代ギリシアにおいてアテナイの市民、特にソフィストを相手にその意見を引きだしその説明をさせながら、それを吟味し、行き詰まらせ、その無知を告白させるに至る問答法です。その目的は、個々の事物からそれらすべてに通じる普遍的概念=本質を探求し導き出すことです。ソフィストがお互いの意見を戦わせ打ち負かせてしまうのに対して、ソクラテスは対立する意見であってもそこに共通するものを求めており、混乱を整理して真理が顔を出すのを期待するのです。

 ソフィストは、無知であるとして自らの意見を述べないソクラテスをぺてん師呼ばわりして批判しましたが、ソクラテスからすれば、ソフィストの意見が真理が芽を出すのを妨げる雑草であって、それらを引き抜くための精一杯の精神を耕す行為だったのでしょう。法科大学院でもソクラテスメソッドで答えに窮してやり込められたと不平をもらす受講生もいるようですが、自分の頭でじっくりと考えることもなく正解かのように覚えた情報は知識を生み出すことを邪魔する雑草にすぎないので、それをまず抜いてしまわなければならないのです。受講生は、ソフィストたるのでなければ、雑草を生やせた失敗を失敗として自覚して同じ過ちを繰り返さないように、自らの学習を見直すべきでしょう。失敗を失敗として認めなければ同じ過ちを繰り返してしまいます。失敗は学びの最大のチャンスです。活かしましょう。

 ソクラテスは、知は想起だと言い、対話の相手に内在する真理に気づかせそれを自覚させ生み出させることととらえます。自分のうちに内在するとはいえ、自らの力だけではそれを生み出すことは難しく、ソクラテスによる対話での探求はその援助であり、その母の職業にちなんで助産術と呼ぶのです。

 ソクラテスにとって、知識は所有する者から所有しない者へと手渡される物品のようなものではなく、自らの思惟によって生み出した知識のみがその人の真の知識なのです。例えば、善という普遍的概念を生み出しても、それに従って行動することができなければ知識ではないと考えるのでしょう。悪をなす者は、善を知らないか、その認識が不十分だからであり、「無知」なのです。善に従い行動するのは頭での知だけではなく、心の転換を要するのであり、これは自分自身でなすべきことです。それゆえ、ソクラテスは、徳は知なりと言いながら、徳を教えることはできないと語ったのも頷けます。また、ソクラテスは対話を用いましたが、何らかの方法によって「吟味されることのない生活は人間にとって生きる価値がない」と言いきったことも理解できるように思います。

 次回は「横着心」です。


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