第58回 横着心

 最近、ものの成り行きを予測しこのままで行けばどうなるか、その行き着く先が望ましいのか、望ましくないとすればどういう方向を望んでいるのか、その方向づけに今現在何をしておくべきなのかを一緒に考える機会があります。

 それは一緒に考える相手の将来のことであることが多いのですが、そのなかでしばしば気になることがあります。それは経済活動的な思考、つまり、最小のコストで最大の成果を得るにはどうするかという発想が纏わり付いてくることです。

 将来自分がこうなりたいという構想において何が必要なのかを客観的に捉えられる能力試験の点数や資格試験合格による資格取得等に絞り込んで、それを得るにはどうすればよいか、できるだけ簡単な方法を教えてほしいというのです。

 「自分の将来のことなのに横着な考えだな」と思いつつ、簡便な方法で一定の能力や資格を手に入れてもそこから先に広がる世界にどう向かって行くのかを尋ねるのですが、それはその時に考えるとのことです。その時にまた僕にどうすればいいと相談にくるのかと冗談めかして言うと、そうかもしれませんと答えが返ってきます。そう先の話ではないけれども、その時点における自分がきわめて単純にしか想像できない、あるいは想像することもなく他人事のように自分の将来を見て第三者に考えさせているんだなと思うと、ますます横着なだと感じるのですが、それに気づかずに自分では賢く生きていると思っているらしい素振りを見て、自分が成長することを考えられないことにやりきれなさというか、悲しみを抱いてしまいます。

 新刊書を読んでいて、朝三暮四におけるサルの論理形式を内面化する人々が社会において多数を占めつつあり、その人々は、自己同一性を未来に延長することに困難を感じる時間意識の未成熟と、自己同一性の空間的な縮減を属性とするとの指摘になるほどなと思いました。将来を考えるには自己同一性が維持されていることを前提に、そのプロセスをあるべき自分に応じて因果律に照らして割りだしていくのですが、そのプロセスには知的な成長や成熟が折り込まれており、精一杯の努力(失敗や挫折を味わうことも含めて)が求められます。これを邪魔するのが経済行動的な思考を装った横着心です。

 横着心はできるだけ楽をしてできる限りのよい効果を得たいという心癖です。誰もが持っているものでしょう。しかし、横着心に縛られていたのでは、その時だけは楽なのですが、その先でそれまで楽した分のつけを払わさせられるので、しかも後回しにされたつけは大きく、そのプロセスで払う場合よりも厄介で楽した以上の苦労を要し、そのためにその先の将来構想を潰してしまうこともあります。確かに横着心を満足させるためにいろいろな道具や技術が生活の様々ところを支え効率化させています。が、それは、費やすべきエネルギーを省いて楽のみを得るというアンバランスを生み出しますから、そのつけの支払いの苦しみだけが膨らんで、環境破壊や核兵器による脅威など、存在そのものを危うくする歪みを生じさせているように見えます。しかし、科学技術の進展に供なって迅速性と効率性による利便性が最優先の課題となり、これを追い求めてくいくなかで、横着心が通常の思考パターンとして定着してしまっているようです。同じものを手に入れるのであれば、時間とエネルギーをできる限り投入せずに済ませることがスマートで、一生懸命自助努力を重ねるのはダサく格好悪いのだそうです。

 プロフェッショナルを養成する場でも、資格取得等を学習成果ととらえる傾向が強く、目に見えるところに結果を設定し、成功か失敗かが一目瞭然であるなかで、何よりもその結果を格好よく手にすることに重きがあるようです。

 しかし、一定の成果を得られるにしろ、惜しくも得られなかったとしても、そのプロセスにおいて、目的達成にむけて知恵を絞ることがその人を成長させることは明らかでしょう。様々な障害や問題に苦しみ悩むことから、それらを乗り越え解決しようとの勇気を持って、原因を探求し新たな戦略を練って工夫し、それを実践する、そして、これまでの自分の枠を超えて自らを拡大していくことにつなげ、自らを成長させます。この成長には限界がありません。自分がどこまでいかに成長していくのかは、自分自身を客観的にかつ繊細に省察することで確認できます。しかし、省察の習いがなければ小さな変化に気づくことができず、自分が気づかないものに他人が気づくとは思えないので、自信がもてないのでしょう。

 この壁は自分の成長に価値を置きともかくそれを求める努力によってしか超えられないようです。この努力ができる、続けられることはまさに一つの才能であることを褒めたたえて修得にいたらせる、それも教育の一つではないでしょうか。

 悩みや苦しみが人を成長させるのではなく、どう悩み苦しんだかだと思います。楽に成果を上げるにしても悩みはあると言われるかもしれませんが、それはあくまで横着心の現れのなかでのことであって、横着心を超えていくことはできません。

 仏法では、人間界も人間の悪因縁を解脱することが求められますので、横着心も超えるべきものでしょう。人間は、他の境界に比べれば、その業を解消することに少しゆとりがあるために、悪因縁や業を忘れてしまいます。つまり、因縁に紐で結びつけられているのです。しかもその紐に長短があるのです。紐が長ければ動き回る範囲も広いのですが、その分、悪因縁が働けばその悪影響も広きに及び重大です。その紐のゆとりで因縁を増長させてはならず、その紐を切るためのゆとりなのだと学びました。
 
 次回は「新入生の皆さんへ」です。
 


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