第61回 智心(1)

 お久しぶりです。

 新型コロナウイルス禍のなか、ゆっくりと考える時間ができ、また、これまで日常として気を払うこともなかった1つ1つの事実に気づき感謝することができたという声がしばしば聴かれます。

 自宅に籠って他人との接触をできるだけ避けるなど、感染防止あるいは拡大に至らないよう自らの行動を抑制していると、自然と自分自身(もちろん家族も)との会話を愉しむことが多くなり、新たな生活様式に基づくことで事態の鎮静化に向かう状況でもその対話は続いています。忙しい中ですっかり忘れていた時間の過ごし方です。現在を観て、過去を顧み、将来を展望し形成する、そして自分自身の生き方の核心を思い起こさせる貴重な経験でした。

 折に触れ、仏典を思い起こすことが多くありました。大学時代に法律学を学ぶこともそっちのけで読み漁っていたなか、印象に残った言葉が脳裏をよぎります。

 「依止するところなし」という言葉もその一つです。「依止」は他のものを頼り他のものによりかかることを意味します。これは、貪心がもとで、他から何かが欲しい、認められたい、感謝されたいという思いが表に出て行動となるところです。

 貪心は人よりうまいことをしようという思いです。この思いは、すべて自己を中心にしてものを見るところから起こります。人がどれだけのことをしてくれても気に入らず、もっと何とかしてくれてもいいのではないか、何とかしてくれるのがあたりまえだと思います。なんでも自分の都合を中心にして外に多くを求める心であり、人の親切や努力をも貪ってしまいます。

 自分中心の考えでものに執着する心が生じると、それに偏って純粋公正さを欠き、浄心を失うこととなります。

 「正徧知」という言葉があります。これは大智であり、仏の智心です。正しく、徧くゆきわたって知る智恵です。

 人間(凡夫)の知恵はいずれかに偏っており、それゆえにものごとの判断が偏ってしまいますが、それに気づかずに正しい判断だと思い込んでいます。これは、仏の大智に対して、小智です。
 
 ものをたくさん知っている人はいます。さまざまな情報機器を用いればいかなる領域でもどんなに専門的なことでも瞬時に正確な情報を得ることもできますので、いろいろなことを知っています。確かによく知っているのですが、多くの情報をよせ集めて、整理もされないままに知っているのみではないかと思われることもしばしばあります。いったいなんのために学んでいるのだろうかとの疑問を禁じ得ません。ただ手あたりしだいに多種多様な知識をかき集めています。それでは「正しく知る」とはいえないでしょう。

 「正しいとは、それが定まった中心をもっていて、すべての部分が整っていなければいけない。つまり、体系的でなければいけない。それが正しいということである。」と教えられたことがあります。
 
 しかし、正しいだけではまだ足りません。自分の知識がある部分にだけ限られて、ほかのことはまるでわからないというのでは困ります。「徧く」ということが必要です。学者は自分の専門のことについては体系的に正しく知っていますが、ともすると、この徧くということに欠けることがあります。自分の正しいということだけに固執して、自分だけが正しいというように片寄ってしまいます。

 「学者とかもの知りとかいわれる人ほど、自分のかぎられた知識や才智をぜったいと信じて、さかしらだてに論議する。こういうのを『戯論』という」、「もし正だけを考えて徧ということを考えないと、それは偏屈になる。徧というほうだけを考えて正のほうを考えないと、まるでまとまりがつかないことになる。」と聞いたことを思い出しました。

 次回は、「智心(2)」です。

 


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