第62回 智心(2)

 「正徧知」とは、正しく徧く行き渡って知る智恵です。おそらくは、正しく核心をもち、できるだけ広くあらゆることを知り、その知ったことが核心部分とともに整理されている状態です。

 仏教では、縁起の法(因縁因果の道理)がものの成立と存在における真理であり、核心部分にあたると思います。

 あらゆる事象は原因があり、原因があってもそれを助ける縁がなければ現象化しないことをしっかりと認識し、自らの心の動きをコントロールすることに活かすとともに、あらゆる現象を因縁因果の道理に照らし観て考えることが必要なのでしょう。確かに、誰かに騙されたとか裏切られたとかでその人に怒りを向けることがありますが、縁起の法に照らせば、自分に生じた現象は自分自身にその因があるからであり、その人はその因を助ける縁となっているので、いわば自分自身がその人を寄せてきたといわざるを得ず、自分のことを棚に上げて他人を怒るよりも、自分自身の因を変えていく、自分が変わることでそのような人との縁を生じないようにしていく、そう考えるなかで怒る気も失せるという流れでしょうか。怒りも貪りも因縁因果の道理を無視する「癡」によるといわれます。貪瞋癡は人の心を害し、人生を損なうことこの上なく、三毒とも称されます。

 正徧知が仏智であり、それが智恵のあるべき姿であるとすれば、人智においてもそのようなあるべき姿の知恵を身に付けるための学び方を考える必要があると思います。

 まさに学び方を追い求めて、まず学修の方法論に取り組んだことがあります。30数年前のことですが、すでに当時から、さまざまな学問領域の知見を生かした優れた方法論が提示され始めており、それらの方法論から学ぶことも多々ありました。同時に、多くの情報を獲得しそれらを整理していくプロセス等を教えていただき、それを実践してみると、あふれんばかりの情報から適切・的確に必要な情報を選択するための技法は身についたものの(もちろんこれは非常に有益な技量でした)、得た情報が散らかっているか、整理されても体系的に情報内容を導き出せる状態にはないという状況で、体系化の「正しい核心」が得られないと感じました。それらの方法論の指導は「核心」を伝えるものもあったでしょうし、むしろ「核心」は選別した情報に基づいて自らの分析によって形成すべきものであって教えられるものではないというものもあったと思います。当時の私にはこれらを見分けそれを実践して修得するという力量がなかったので、正直、途方に暮れてしまったのです。

 すでに教壇に立っていましたので、方法論でも何かの役には立つのではないかと授業等で話すことはありました。しかし、教える側として教わる側を見ていると、知識や方法論を提供するだけでは、教える側も教わる側も一時的な満足を得られるにすぎないことに気づきました。それどころか、方法論は学ぶ側をマニュアル思考化していくことになる恐れがあることを知り、学び考えるために情報を集め選別し活かすはずが、学びも思考も弱体化・受動化させてしまい、それが学ぶ側の顕在的な学修能力を損なうだけではなく潜在的な能力を引き出すことも難しくしてしまうことを経験しました。実に申し訳ない授業をしていたと猛省しました。

 大学で学んだことがその後の生き方を支え、自らが学びに喜びを得て、そこから得たものをもって周囲の人々に幸せをもたらすことができるようになって欲しいと考えていましたので、再び、仏典に立ちかえり、学び直しました。

 仏智である正徧知は、正しい核心に縁起の法を据え、これに基づき事物の成り立ちと存在を普遍的に捉えることができ、それを自らの行動に取り入れることで自らを修練できるものです。これは「最高レベルの知」であって、すべての人が認識し体得すべき真理でしょう。方法論は、これのような核心を獲得させるものであれば、これを求める人々のもつあらゆる能力を最大限に引き出すものです。そうでなければ詰まるところマニュアル人間(マニュアルがすべてであり、これを墨守すれば何とかなるのであって、これだけやれば良いという自己暗示に自らをかけてゆく人とか)を生み出すことにしかならないと思います。

 求める人々がその方法を実践することでその能力を開花させるには、それぞれに応じた方法が必要です。十把一絡げに扱える方法論はないでしょう。実際、仏智を獲得するために釈尊が説いた方法は1つではなく、弘法大師のお言葉では「三十七菩提分法」と呼ばれるカリキュラムに体系化されており、修行者の気根に応じていくつかの科目を組み合わせて指導されていたと聞きました。これは途方に暮れていたときに希望の光に思えました。

 次回は「智心(3)」です。


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