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第68回 考えることを思い出させるプロセスの重み(続)

「どうも正解があることが前提の方法論で、問題と結果とが結びつけば、そのプロセスは気にしていないようですね。だから、結果というか結論というか、それが正解か、あるいはそれで点が取れるかという観点のみのようだけど、論理的な思考は条文や原理原則論から立ち上げて、論理を必然性で結び付け結論を導くというプロセスを重視するので、勉強のベクトルの向きが正反対でしょう。だから、日頃の勉強から、どうしてこの場面が法律論で取り上げられるのか、どういう対立があるのか、その対立がいかに解決されるのか、その解決のための規範や要件はこれでいいのか、とか、プロセスを追う際に疑問を持ちながら分析し検証する癖をつけないとね。」と答えると、「それでは時間がかかります。早く試験に受かって独り立ちしたい。だから、何か答案の形式を教えてもらえば、それに合わせて整えていきます。」と食い下がります。

「何らかのメソッドがあればそれを使って自分を『らしく』見せようとしているように聞こえるけど、あくまで他人のメソッドだからそれを受け入れ駆使できるようになっても、あなた自身のスキルは高まらないよ。自分のスキルを高めて必要なメソッドを創り出せないと、独り立ちできてもクライアントに迷惑をかけるじゃない。特に正解のない世界ではね。」

ここから、プロセスの分析と検証を伴う勉強を一緒にトライしていくことになります。

受験仲間と一緒に勉強していた旧司法試験の頃から、司法試験も大学受験等での受験勉強で合格できるという考え方は広がりつつあり、出来上がった論証や模範答案の論述を拾い集める輩も増え始めていたのを覚えています。

幸い、ゼミ仲間にはそういう風潮に乗るメンバーはいなかったので、自分の基本書の論理プロセスを、行間の意味(経典では文底沈意)を汲んで明らかにしようと議論して、司法試験に合格できるまで自分のスキルを高めて、試験会場でそのスキルを活かすことができ、ゼミ仲間は合格したと考えています。

当時は受験生の多くがスキルの向上を競っていたために、合格まで平均5~6年を要していたのではないかと思いますが、その間に、時に不合格の結果に直面し、勇気をもって自らの現状を直視し分析して自分に足りないものを明らかにし、それまでの勉強法を試験で求められているものに見直し、これだという方向性を定めれば、しっかりとした計画を立て前進する、行き詰まっても工夫をしながら、信念をもってやり遂げていくというスキルを身に付けています。

このスキルに法的専門知識が加わることで法曹になるための切符が授けられるように思います。

ただ、最近はますます機械的な学習法とか、個別的な学習指導とかによって受験者自身が考えるべきことを教える側が考えて提供するために、受験者は主体的に学習を工夫することをおろそかにし、合格するのに必要な知識をお金で買う消費者的思考が強く、学びの機会を共有しても、なぜすぐに役に立つ知識、つまり答案に書いて評価される論述を教えないのか、高い授業料を払っているのにどういうことか、さっさとこれでOKという万能薬のような正解を教えろという不平不満が充満してくるのが手に取るようにわかります。

素直で正直な態度は美徳だと思います。それで世の中を過ごしていければ良いのでしょうけれど、不条理なことも多々生じています。それによって困っているあるいは苦しんでいる人があれば、その不条理を明らかにする必要があります。それは苦しみを生み出すプロセスを浮かび上がらせ、それを分析し検証することが最初の作業でしょう。この作業では1つ1つのプロセス形成要素を批判的な目で追究しなければ、不条理に気づきません。

これまでとは違って、ここに不条理があるよと正解を教えてくれることはないでしょう。それは自分がやらねばならないことです。そのためにプロセスの分析と検証を行う意識づけをし、その癖をつけて、その能力を習得し磨いていきます。これによって不条理に苦しむ人に手を差し伸べることができるでしょう。

説明すれば分かるのだけれども、現在は当面のハードルである司法試験に合格したいという思いに焦がれていますし、これまでの勉強が骨の髄まで染み通っていますから、すぐには納得しません。これをはねのけるにはかなりのエネルギーを要します。

でも、本を読んで当然の疑問が浮かぶようになり、自分で読み込んで疑問を解消する、あるいはやはりおかしいと思うことが知的刺激となり楽しみになって目が輝くのを見ることはしばしばです。それがこちらの励みになります。

次回は「広く浅くの錯覚と画一化への執着による輪廻」です。

 


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