第7回 鏡 (2)

 水が濁っていず、沸騰しておらず、苔や草に覆われていなければ、人はいつでもそこに自らの姿を映してありのままに見ることができます。水面を鏡としてありのままに映ったその姿を正しく観察できるかどうかはまた別の問題です。ありのままに映った姿をそのまま観察し正しく認識するには、観察者に怒り、欲望や愚痴がなく澄み切った心境であることも必要です。知識の活用が感情によって阻害されるように。
 
 自らの姿を映し出す鏡はいろいろあるようです。「子は親の鏡」と言われます。親の遺伝子を引き継いでいるから身体的な特徴が似ていることはもちろん、幼いころから親からさまざまな生活の知恵を学ぶとともに、親の価値観も子どもに刷り込まれていくこともあるのでしょう。長年共に暮らす夫婦は容貌やしぐさ、性格まで似てくるとも言われます。その理由は、シンクロニー現象(好意を持つ者同士において相手との関係がこれからもずっと続いてほしいという欲求の表れ)とか、ミラーニューロン(他者のある動作を見たとき、自分もその動作をしているかのように鏡のように反応する神経細胞)効果とか、いろいろ説明がなされているようです。

 いずれにせよ、子供、親、配偶者や恋人など身近な存在に自らの姿を垣間見る機会が与えられています。子供の態度を叱責することが必要な場合であっても、一方的に非難するだけでは「それもこれもあなたから受け継いだもの」との痛言を招き、それぞれの感情をぶつける事態に陥ってしまう、お互いに相手の非を責めたてるだけの口喧嘩で終わってしまうことのないように、子供と同じような態度を自らが子供に対してあるいは子供の目に入るところで取っていないかを振り返って、心当たりがあればそれを変えていく方が早く変化するかもしれません(「他人を変えようとするより、自分が変わった方が早い」とはしばしば耳にするところです)。これも学び(で得た知識の活用)がなせる自己変革でしょう。

 学生の授業や試験に対する姿勢や態度を見ていて、教える側のそれを映し出す鏡であるように感じられます。最近読んだ新書のなかで、「日本の教育は服従型の教えをよしとしています。学校では、『先生の言うことをキチンと聞いて学びなさい』というシステムが当たり前とされていますから、たとえばABCDのうちどれかを選ばなければならなくなった際、先生がAが正しいと言えばAを、Bが正しいと言えばBを選択し、それ以外の答えは間違っているとなるわけです。こうした教えを日本ではよしとし、徹底的に子供たちに植えつけさせます。」との一節が目に留まりました。教えられたことを従順に受け入れる、それが成績良好と評価されるようです。そこでは、教える側は学生を通じて自分の教えを見、学生が澄み切った鏡であることのみを求めているのではないでしょうか。

 法科大学院では、法曹が社会における不合理を自ら見つけそれを法的手段で是正することも求められる以上、課題発見能力の鍛錬が不可欠です。鏡であることに徹する学生は誰かがそれが不合理であると教えないかぎり、不合理との判断に自ら達することはできないのではないでしょうか・・・。 (つづく)

 次回は、鏡(3終)です。


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