第74回 アプローチ③―区別の技法と転移の技法―

勉強することは、知識量を増やすだけではなく、勉強主体の学修力のレベルをアップさせることにつながる学びの修得でなければならないと考えています。勉強を学びの修得に転換するのは転移の技法です。学びの転移を図るには、学修の多面性と複層性を見極めて転移可能かを判断する必要がありますから、区別の技法を必然的に伴うこととなります。

ある知識を得、それを使って問題を解決しようとする場合には、その知識がその問題に使えるのか、使うとすればどのように使うのかが常に問われます。その意味では、転移の技法と区別の技法は既存の知識の活用に不可欠でしょう。

残念ながら、最近は、この2つの技法を用いることで、基礎的知識が十全なものへと質的に変化することを経験的に知る学生が急減しているようです。それゆえ、多くの学生は基礎的知識を量的にのみ捉え、それだけでは不十分であると言い、個別具体的な知識の活用場面すら知識として獲得しようとします。知識の活用場面が特定されて個別化するがゆえに、知識がバラバラでつなげることができず、膨大な量を習得(記憶)しなければならないと、悲愴感を漂わせて嘆かれることもあります。

この状況に小器用に対処する学生もいます。その小器用さが迅速性と効率性を追い求めて結果を出すことのなかで得られたものであるため、先例をモデルにパターン化することが多く、新たな問題に直面した場合には強引に割り切ってしまうこともしばしばです。

勉強が知識量の多寡に重きを置くことで、知識を活用するための技法の修得やその実践によって鍛えられる能力の高さが問われないために、能力の向上によって知識量頼みから逃れ、その量を逆に押さえこみ、能力をさらに引き上げることに時間とエネルギーを投入できることに気づかないままになりがちです。

本来、勉強は転移の技法と区別の技法を修得することを勉めて強いられているのではないかと思います。潜在的な能力を引き出し鍛えるには、何か困難なこと、厄介なことや面倒なことに直面したときがチャンスであり、それを乗り越えようという強い意志のもとに行動することが必要です。

法科大学院での教育は法曹養成プロセスの一端を担うものとして制度設計されています。そのプロセスは法学部におけるいわゆる法曹コースとの5年一貫型教育の導入により前倒しされ、プロセスの時間軸に修正が加えられています。

変わらない点もあります。法科大学院入試、司法試験やいわゆる2回試験といったペーパー試験が節目節目に課されますし、学部や法科大学院在学中には予備試験の受験機会も与えられています。これらの試験は法曹の資質と能力を鍛えるプロセスにあるチェックポイントであって、道を誤らないように配慮されたもので、それぞれ試験が時期に応じて求められる方向性を示唆するように設定されます。その趣旨を正しく理解することが課題ですから、自らの潜在能力を引き出す機会となり、学びの技法を修得して、生涯、プロフェッショナルとしての職責を果たすべく学び続ける力量が得られるでしょう。プロセスをプロセスとして捉える学修です。

これらの試験が独立したハードルにすぎないと考えれば、大学受験等と同じく、合格すればよいということで合格結果のみが追い求められます。試験に対する目的意識が同じなので、従前の経験に照らしてこれらの試験にも対応するでしょうから、合格するための迅速で効率的な方法とおぼしきものを真似るのに必死です。これさえ書けばどのような事例でも大丈夫という論述があると思い、それを必死に探します。それは一見普遍性を求めているかのように思えますが、それは表層的なところでの普遍性であって、本質の探究によるものではないために、実際には点で分断された学習にととどまっています。

法曹コースでは、大学に入学して間もないころから早期卒業を目指し5年一貫型の法科大学院入試に応じた学習が目指され、学部成績(特に厳格な成績評価が条件とされる場合)がものをいう5年一貫型入試に対しては、学部試験で優秀な成績を上げることが至上目的となりがちです。実際、授業で示された議論をそのまま覚えて答案に書くと評価されるので、そのような勉強がなされていると聞くこともしばしばです。

法曹コースでの勉学がこのような学習法に陥らず、これまでの学習姿勢を変革し、点をつなぐプロセスを意識させた学修法を学ぶよう指導されることが期待されます。法科大学院からもそのような学修を指導する機会を提供し協力させていただきたいところです。

転移の技法や区別の技法を修得しようと自分一人で学ぼうとした経験(独学経験)がなければ、仲間が集まって議論することのありがたさもわからないでしょう。1人で学ぶことがあれば、仲間の意見が自分自身の勉学や思考を検証する契機となり、「区別する」「つなげる」「転移させる」というプロセスを発見したり、見直したりすることそのものが学修となります。しかし、独学が試みられていなければ、教えられる機会のみを重視します。議論における他者の疑問は教えられる機会とは捉えられず、学習は個々の事象のつながりを欠いた表層的な理解で終わってしまい、難題に立ち向かうことで何かを生み出す機会を失い、社会にとって不利益を積み重ねていくことに気づかないでしょう。

結果を追い求めれば、教える側にも同じことが起こります。とにかく、いついつまでにこれくらいの結果を残さなければならないとなれば、その結果がゴールとなってしまい、プロセスにおける通過点という認識はそっちのけになりかねません。学生も長い期間勉学を重ねてきているのが通常ですから、その間における学習経験を押さえながら、その勉学に何を新たに取り込みどこを強化すれば学習から学修へと質の転換を生じさられるかを慎重に考え、学生を自力で歩かせながら、持てる能力を発揮させて成果を上げ、考えることに自信を持つに至らせる、それが専門職大学院における人材の養成だと思います。


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