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第75回 アプローチ④―区別の技法と転移の技法―(最終回)

 法曹養成教育プロセスにおける勉学は、知識量を増やすことを主たる目的とするのではなく、知識量を増やすためにどのような学習を工夫し実践するか、そこから学びの技法を取得できるかによって、学習到達レベルを飛躍的に向上させ、その質を転換させることにあると思います。それが法曹としてそのプロフェッショナル性を支える学びを生み、クライアントをはじめとする方々にその職責をより適切に果たし、専門職として生涯をかけて社会に貢献することを可能にするでしょう。

 過日、オンラインでとある授業を参観いたしました。具体的な事例の解決を図る授業において、学生が個々の事実にばかりに気を奪われ、そのなかからピックアップすることに議論が集中する傾向があるなか、「規範へのあてはめにおいて、どのような事実がピックアップされ、いかなる順番でその事実を使っているのかを見れば、定立した規範がなぜ選択されたのか、その選択を支える価値観が見えてくる。その主張の是非を吟味するには、規範のあてはめの方向性とそれを規定する規範選択の価値にまで目を向けて検討する必要がある」という趣旨の指導がなされました。しかし、この指導を受けても、学生の議論は大きく変わることなく、それまでの議論を繰り返しているようにしか見えませんでした。

 当該指導はいわゆる「規範の定立から事実のあてはめ、そして結論を導く」主張を検討するための考え方を提示されたものですが、学生にはその考え方に応じる自らの思考経験がないためにその指導を活かせなかったのだろうと思いました。今さら、そのような思考体験から、考え方そのものを新たに修得させるのは正直難しいしそれを求められるのも辛いだろうと思われ、もう少し前の段階でこのような考え方に慣れさせ自分のものにさせる学修をともに経験する必要があると痛感させられました。

 法曹養成プロセス教育でも、司法試験等を目標にしつつも、試験の趣旨や問題内容等を真剣に分析することもなく漫然と勉学を続けていると、試験勉強に対する狎れから、正解を所定の時間内に導きだし論じるために、事例解決の分析視座を範疇化などして単純化し、視野を狭めて解決を図る矮小化のテクニックが無意識的に用いられているのをしばしば見ます。これはやむを得ない面もありますが、さらにこの勉学のために、論述等の出来上がったものと思い込んでいるものを自分の中に落とし込むことを繰り返すのを見るとさすがに呆れてきます。とはいえ、これは学ぶ側だけを非難するわけにもいきません。これまでの勉学プロセスでこれが好ましいものではないことを教える側も伝えていないからです。教えられているのにそれを受け付けないのであればそれは学ぶ側の責任が大ですが、そもそも教えていない、教えてもそれを体験させ認識させていないのであれば、学ぶ側よりも教える側の責任が大です。

 学びの場では、学ぶ側は教える側の深奥を感じ取っていて、教える側が漫然と従前と同じことを繰り返したり、できないことをできるようにする努力もせず、これを蔑ろにしていれば、学ぶ側にも反映されるものと思います。学ぶ者は教える者の鏡です。

 最近刊行された、いくつかの新書を読んでいると、興味深い指摘が見つかり、刺激を受けることも多いです。いくつか挙げさせていただきます。

 「抽象化ができていない状態というのは、抽象度の高い上位の世界が見えておらず、いわば暗黒の世界になってしまっている状態と言えます。」
 「具体の世界から抽象の世界を『見上げた』としても上には何かあるようには見えない、つまり具体の世界のみに生きる人には抽象の世界は見えないのです。」
「具体の世界は五感で感じられる分、見えない(聞こえない、触れられない、嗅げない、味わえない)人はほとんどいないのですが、抽象の世界は『見える人にしか見えない』(他の五感も同様)というのが重要なポイントです。」
   (細谷 功『「具体⇔抽象」トレーニング』PHPビジネス新書2020年111・112頁)

「私は、知識を収集すること自体が、人間の思考力を高めてくれると信じていました。知識とは累積的な性格を持ち、便利な思考のアイテムとして役立ってくれるのであれば、そうした有用な存在である知識を集めていくだけで、人間の思考力は向上すると思っていたのです。」
「私は『単に本に書かれている内容を片っ端から受容していく』という仕方の読書法をあれほど長い期間続けてしまったのです。その結果、失われてしまったのは私の思考力自体でした。単に本を読み続けるだけでは、人間の思考力は失われてしまうのです。」
   (山野弘樹『独学の思考法』講談社現代新書2022年29・30頁)

現在、未来の法曹に要求されていること、法曹だけではなく社会に役立つ人財に求められていることは同じで、急激な変化の可能性、不確実性、複雑性や曖昧さをもつ現代社会において自分で考えることにより新たな道を切り開くことでしょう。自分で考えるにはどう学べばよいか、そもそも考えるとはどういうことなのかを学ぶことがスタートでありゴールなのかもしれせん。

 最後に仏典から。
 「比丘たちよ、さまざまな思想家は盲目にひとしく、理と非理を知らず、法と非法を知らざるがゆえに、思想的題目を論じ争って、つきる時がないのである」
「昔、ひとりの王があって、象を見たことのない人を集め、目をかくして象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせた。象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、足に触れた者は、臼のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。」
「かれら沙門、婆羅門どもは、おのれの見解を持してゆずらず。
 ただ一部のみを見るがゆえに、人々は論じ争うてやまず。」
   (仏教伝道協会『仏教聖典』 & 増谷文雄『仏教百話』ちくま文庫)

 ヒロシマの街を散策していて、矢庭に肩を掴まれた時から、十数年経ちます。その間に、この街で「正義」、「公正」、「公平」という弱者を犠牲にすることのない価値観を培う法科大学院という場でともに学ぶ機会を得ましたが、この地でそれを希求する方々の期待に添えたのかどうかは甚だ疑問です。多くの皆様のご支援、ご協力を賜っただけに、自らの徳のなさを恥ずかしく思います。まだまだ研鑽の日々が続きます。
 皆様にはこれまでのご厚情に感謝申し上げますとともに、今後とも広島大学法科大学院へのご支援を心よりお願い申し上げます。


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