第8回 鏡 (3・終)

 送られた情報を無批判にキャッチして記憶しそれをそのまま論ずることができることも1つの能力ではあります。ただ、情報の単純な再現はまさにITが圧倒的に優位な領域です。ITは記憶された正確な情報の量を活かして試行錯誤しながら学習するレベルにまで進化しています。ITがさらに発達すれば、30年後あたりには多くの職種がITに取って代わられるとの予測もあります。

 人間に問われるのは、膨大な量の情報から必要なものを選択する能力、および、これを活用してコミュニケートする能力であると指摘されています。情報の価値を評価し重要なものを選択する能力や、重要な情報に基づく判断を他人に分かり易く説得的に伝える能力が鍛えられていれば、その人は社会に必要とされるのでしょう。

 最近、コミュニケーションのキーである語学力に関する新書を読んでいて、「創造的になるためにこそ基本を覚えなければならない」が、その際のポイントが、「なぜこれを覚えることが必要なのかを知っていることと、前後の文脈を考えずに単語だけを取り出してひたすら丸暗記しようとしないで、必ずその単語なり表現なりがどう使われているかコンテクストを知ったうえで、口に出して言ってみて、手で書いてみて、頭に入れること」であるとの一文が目を引きました。大学入試等の学力試験で試された知識は必ずしも社会での実用に耐えるものとなっているとは限らないのです。

 法科大学院における学修にも共通する難題が学生に見られるように思います。教員の説明を忠実に記憶してそのまま試験に書けばOKであるという思考癖、あるいは問題とその解法をパターンとして認識・記憶し試験問題とのマッチングによって解法を選択するだけであるという思考癖が身に付いていると、他人の頭で考えられた結果のみを利用することに馴れてしまっているので、「問題や課題がまずあって、その解決を求められているのだ」という意識が生まれず、記憶された情報や解法を使うことを無意識的に優先させてしまいかねません。問われた事例が記憶された問題とは違っても、その違いを克服できなければそれを無視して記憶された解法をあてはめてしまう、あるいは、記憶された問題と似ていればそれだと決めつけて事実の違いすら目に入らないなど、問題や課題を捻じ曲げていることに気づかず、自分が理解したいように対象を理解するという、情緒的思い込みで済ませてしまう傾向が見られます。それでは、客観性も実証性も欠け、まさに反知性主義に陥りかねません。創造性と柔軟性、相談相手に気づきを与えることを求められる法曹の卵がこの状態では困ります。

 このような思考の自律性を放棄した短絡的な思考癖を打ち砕くには、教える側がその思考壁を十二分に認識したうえで何をどう教えるか、いかに考えさせるかを工夫し粘り強く戦うことが求められます。その前に、学生が鏡であるならば、教える側が自らの思考の流れを見直して襟を正す必要があるかもしれません。学生の潜在的な能力を引き出すための学びの機会は常に目の前にあるのです。

 次回は、「受持」です。


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