第9回 受持

 「受持」は、仏法の経典を読誦する際に唱える開経偈のなかに出てくる言葉です。釈尊の説かれた法(教え)を、見て聞いて「受け取り自分のものとして持する(たもつ)」ことを意味します。つまり、法(教え)を、言葉や所作として覚えるだけではなく、その本当の意味を理解するために、日々の生活に取り込み、それに照らして自らの行動をコントロールしていくことが肝要であるということです。

 仏法では縁起の法がその要であると言われます。縁起の法を説く経典は多々ありますので、それを目にし耳にする機会もあろうかと思います。日々、経典を読誦すれば空んずることも可能です。

 しかし、それはその経典の意味、つまり縁起の法を理解することとは違います。縁起の法によれば、すべては、縁によって生じ、縁によって変化し、縁によって滅するのであって、その存在は有でも無でもなく、空であるととらえるそうです。原因があってこそ、それを助ける縁が集まり、これにより結果が生じるとともに、報いを受けることとなります。その報いを受けることが新たな原因となります。善因であればそれを助ける縁が寄って、善果が生まれ、その報いはその人にとって善きものとなり、悪因があれば縁が揃えば悪果を生み、苦しむこととなります。善因善果、悪因悪果と聞くところです。

 経典を学び、読誦し、すらすらと発せられるようになると、何となく縁起の法がわかったような気になります。すらすら読めることが習熟したとの誤解を生むのです(流暢性の錯覚)。そもそも学んだことや経典を繰り返し読むことで、詳細をも記憶することができます。それは、記憶を呼び起こすたびにその記憶に至る回路が強化され、記憶そのものも強固になるからにすぎません。

 日常生活で自分に都合の悪いことが生じたときに、その原因が自分の中にあるとして自らを反省することなく、その結果の惹起を助けた縁を非難するのでは、おそらく縁起の法を自らの生活の中に取り込み、その教えに従っているとは言えないでしょう。自分が経典の真義を知っているのか否か、それを理解しているのか否かを正確に把握する術(自らの生活の中で因縁果報をどのように見ているのかを客観的に観察できる方法)が身につけば、自らの生活の中に縁起の法を活かして善因を積むことに励むでしょう。これも、高僧が仏法の核心を問われた際に「諸悪莫作・衆善奉行」と答えたのに対し、質問者がそんなことは3歳の子供でも知っていると呆れたのを見て、「3歳の子供でも知っているが、80歳の翁でも実行することは難しい」と諭したとの話を聞きます。法や教えは自分の生活において自ら活用できるように努める修練が必須であり、それにより難しさを克服していくのです。

 法律学の勉学も、実務家を目指すのであれば、学んで知ったことを理解し、裁判例を素材に事案処理を繰り返し、知識を強化、拡充、修正する学習能力を向上させて、自分でさまざまな事例に活用できるように修得することが重要です。仏法の体得と共通すると思います。

 次回は「口癖」です。

 


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