第22回  戯言

 アメリカのロースクールの先生からのきつい一言から。

 「さまざまな目的が想定される、あるいは少なくとも目的が特定の範囲に絞り込まれない教育の場では、教育に多様性と変化が求められるので、教育主体は異なるバックグラウンドを持つ人材を集めるべきである。一元化されない教育こそがその目的の達成に有益なのだ。

 しかし、特定のまたは一定の目的を達成させるための教育を実施する場合には、その目的の実現に自らが一意専心したことのある人材が教鞭を執るべきである。ロースクールもしかり。教育目的がハイレベルであればあるほど、その場での教育が一つに収斂されねばならない時機が不可避的に訪れるからだ。この収斂はその態様も行き着く先も言葉で伝えきれない。自らの経験を通じてのみそれを理解し確信でき、そして、教育実践を工夫できる。学ぶ者に最善を尽くそうと必死に努力する者であったとしても、おそらくこの収斂はとらえられないであろう。」

 この言葉を初めて聞いたとき、かなりの違和感を覚えました。特に、最後の一言には反発したいとの衝動に駆られました。「餅は餅屋」とは言うけれども、「手に職を」といわれる専門性とは違って、知的活動では知性を錬磨すれば必ずいかなる壁も超えられると確信していたからです。ただ、この先生の言葉にはいつも先見性と峻厳さがあって、それが正しいことをたびたび痛感させられていたので、頭のどこかでずっと気になっていました。

 この頃、私は既に法曹志望から研究者へと方向転換し、日夜研究課題に取り組んでいましたが、その一方で、せっかく2年間司法試験合格を目指して時間とエネルギーを投じたことが何らの結果も残せず、自分自身にとって無為だった(もちろん貴重な仲間はかけがえがないですし、無為などということは熱意をもって為したことにはありえないのですが)というイメージを残したくもないと思い、1つの挑戦をすることとしました。

 その挑戦は、まったく法律の素養のない方が短期間で司法試験に合格することができる学修法を創出することでした。自分自身の体験からある程度の感触は得ていたので、それを普遍化できるかどうかが鍵でした。指導を依頼された十数名の方々に、私の学修法に従ったプランを忠実かつ誠実に実践していただくことを求め、その学修の成果を確認しながら、それぞれに応じた修正を加えつつ勉学を重ねていただきました。皆さん、遅くとも2年で希望の結果を得ましたので、十分な学修成果が得られホッとした思いは今も忘れられません。皆さんがもともと資質に富み誠実な努力家で「自分で考える」ことを愛されていたからなのであって、この結果が学修法によったのかどうかは微妙に思います。

 この時、先生の言葉が頭をよぎって、皆さんの1年なり2年なりの勉学を拘束しますので、私自身もそれなりのリスクを背負わなければならないと、自ら進んで一つの約束をしました。合格に導けずに約束を果たさねばならないと覚悟する、かなり冷や冷やすることもあったのですが、その状況を打破させるために必死にない知恵をしぼって策を練りましたので、観察眼が磨かれ学修レベルを改善し目的を達成させる方策を得て、これを実践していただくことができ、結果につなげました。いわば修羅場をかいくぐるなかで学修法が飛躍的に洗練され相手の学修タイプを見ながら変化をつけることで成果が上がることを確認しました。ただ、どのような方でも、学修の基本は同じで、そこに到達させる方法に変化があるだけです。短期で結果を出すということは、教える側が知識の量や質のみを問うことでごまかして、最終的に学ぶ側に責任を押し付けるようでは、きわめて難しいと思われます。

 お互いを賭けたなかで、ハイレベルな目的を掲げる教育が収斂するところがとらえられたように思いますが、先生が何と言われるか・・・。「戯言にすぎぬ」と冷めた目で言われるのかもしれません。まだまだ精進です。学び続けなければなりません。

 次回は「閃き」です。


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