第11回 鈴木仁准教授

世界の広がりとソフトカバー・ワンダーランド

鈴木 仁 准教授

 現在,私の住んでいる場所の近くや通勤経路に,個人経営の小規模な書店はない。西条駅前や大学キャンパスの周辺にも,大型スーパーに入っているチェーン系の書店以外に書店はなさそうである。最近は,ネット書店Aなどのネット経由での書籍購入の便利さから,書店で書籍を購入するひとが減り,小規模な書店経営が難しくなっていることはよく知られている。個人経営の書店は,絶滅危惧種になりつつある。紙媒体の書籍自体を購入の減少も原因の一つになっているはずである。

 

 いまから,昔話をする。東京ローカルな話である。

 私が小学生の頃,自転車で行ける範囲の書店は駅前のO書店とS書店だけだった。これらは個人経営の書店であったようで,O書店の方がS書店よりもやや大きかったが,それでも,文房具を売っている一角を含めて小学校の教室よりすこし大きいぐらいの書店だったような気がする。小学生のころは,そこに行って,光瀬龍や眉村卓などのジュブナイルSF小説をときどき買っていた。そして,ご多分に漏れず星新一のショートショートを新潮文庫で読みあさっていた。そのころの私にとって,手に取ってみることのできる本は,O書店,S書店にあった新潮文庫や角川文庫,講談社文庫が中心であった。

 中学生になると,自転車でも隣の駅(高級住宅街でもあった)の駅前にあったE書店まで足を伸ばせるようになった。E書店はO書店よりも更に広く,岩波文庫もならべられていた。岩波文庫ばかりを買っていたわけではないが,他の文庫本なども豊富だったため,私がお小遣いを書籍に替える場所は次第にE書店になった。中学時代のレポート課題で,ファラデーの「ろうそくの科学」や柳田国男の「遠野物語」,J。S。ミルの「ミル自伝」なども買った覚えがある。時々は渋谷まで行き,東急文化会館のS書店で近所の本屋では品揃えの少なかったハヤカワや創元推理などの文庫本を買っていた。そのころは現在とはちがって,センター街以外の渋谷は新宿よりもやや落ち着いていたと思う。

 高校生,大学生になると,さらに行動範囲が広がった。新宿のK書店やお茶の水のS書店,書泉B,書泉G,神保町の古書店もカバーできるようになった。大学時代には,特に神保町の理工系の古書店Mにはお世話になった。このような書店と大学生協は,東京に住んでいた頃の私の書籍の調達先であるとともに,なんとなく知的刺激を受けながら,気晴らしのできる場所であった。さまざまな国内の本,洋書,既に書店の店頭に並んでいない古書,値段が高くてちょっと手を出せない本などのさまざまな書籍に,私自身がアクセスできる(購入しないにしても)ようになっていた。これらで手に取れる専門書や小説,マンガも含めた書籍が,私の興味と世界を拡大してくれた。

 たまたまK書店に行ったとき,「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の出版記念の村上春樹のサイン会に出くわし,「生の」村上春樹を見た経験もある。サインをするテーブルには,コーヒーと(差し入れらしい)バドワイザーの缶が置いてあった。

 

 自分の成長,活動範囲の拡大と,手に入れることができる本の範囲の拡大が結びついていたことを幸運だったと思う。この経験は,さまざまな種類の書籍自体(および包含する知識)に,一種のパースペクティブを与えてくれたように思う。すべての本が一様に小学生や中学生の私の目の前に陳列されていたら,私は大海に投げ出されたかのような怖れを抱いていたかもしれない。登山の練習をするように,近所の丘から徐々に高い山へ登っていくことで,世界の広がりをスムーズに,体系的に認識できるようになったと思っている。

 

 現在,ネット書店Aやチェーンの大型書店,古書店のネット販売など,昔よりも数多くの本を購入する機会には恵まれている。しかも,ネット販売や大型書店ではキーワード検索によって,昔ならば探せなかった本もリストアップでき,購入することもできる。非常に便利である。

 しかし,これは本当に幸せな環境なのだろうか。

 これほどフラットで大量な情報を前にしては,キーワード検索で立ち向かう以外に方法はない。そこに知識の体系化はあるのだろうか。本を探すとき,選ぶとき,書棚の間を彷徨いながら思いもよらない本に出会うとき,私たちは言語化できない知恵を無意識に使っていると思う。残念ながら,そのような無意識をキーワード検索で体得することは困難である。

 

 ネット書店の検索で書籍を探すことは,わからないときにすぐにグーグルやヤフーでネット検索するスタイルとよく似ている。このような方法は,ピンポイントで知識を効率よく得られ,わかった気になるかも知れない。しかし,広がりがなく,体系化もできないので,自分自身のものになりにくい。ネット書店Aのおすすめは,書店での書籍の置いてある棚の近さとは必ずしも一致しないし,それが正しい保証はまったくない。検索の後に,自分の世界は拡大しているのだろうか。

 

 今の若い人たちが,町の小さな本屋さんからではなく,ネット書店からスタートしてしまうような環境になっているのは不幸だと思っている。O書店,S書店,E書店,東急文化会館,書泉Bは,今はもうない。

 

 ちなみに,タイトルは内容とあまり関連していない。

 写真は,むかし古書店Mで安く購入した古本(久しぶりに引っ張り出してみた)。

(2017年1月30日掲載)

むかし古書店Mで安く購入した古本


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