第3回世良正文教授

第3回 「人生の転機 - 高温超伝導フィーバー -」

世良 正文 教授

 1986年暮れに,銅を含むセラミックスLa2-xBaxCuO4が30Kで超伝導になるという論文が出て,世界中で大きな騒ぎになった。今から30年も前のことである。100年に一度という大発見として,1年後に,発見者のベドノルツとミュラーはノーベル物理学賞を受賞する。

 この発見のおかげで,私の人生は大きく変わることになった。私はそれまで希土類化合物の磁性と伝導の研究を行っていたが,就職先がなく,いわゆるポスドクとして,グルノーブルと日本を行ったりきたりしていた。その年の10月に帰国し,仙台で研究生であったときのことである。暮れにこの大発見があったことは耳にしたが,ほとんど気に留めることもなく(銅には興味のない希土類一筋の専門バカの弊害というより自分がいかに無知であるかということを分子研で思い知る),就職先をどうしようかとそのことだけを悩んでいた。1987年の1月に,岡崎の分子科学研究所で超伝導の研究をしている佐藤先生という方が助手を探している,という話が舞い込んできた。2月の始めに分子研まで面接に行ったが,仙台からの道中それまでやってきた研究内容をどのように話せば採用してもらえるだろか,と思いをめぐらして岡崎に着いたことは今でもよく覚えている。ところが,いざ面接になると,そんな話はそっちのけで,ぶっきらぼうに「ヘリウムが汲めますか」と聞かれ,「はい」と答えた。それだけで採用が決まった。わずか3分足らずの面接であった。ヘリウムを汲むというのは,学部の4年生でもできる簡単な作業であったので,驚いたし,不思議だった。4月からIMSフェロー(無給)になり,7月から助手として採用された。世界中で,高温超伝導騒ぎが起こり猫の手も借りたいという状況であったことが,分子研に行って始めて分かった。また,ずいぶん後で分かったことであるが,採用された助手のポストは3年任期であった。そんなことはまったく知らないまま,新しい研究生活が岡崎で始まった。

 高温超伝導は銅を含んでいるが,それまで銅を含む化合物の研究をしたこともなく,銅は非磁性と思い込んでいた(自分の無知をさらけ出すようであるが)。私の希土類研究の経験は役に立たないのではないかと,正直なところ,あまり乗り気ではなかったが,背に腹は変えられない,とにもかくにも助手として採用されたことにただただ安堵した。しばらくして,銅が磁性をもち高温超伝導の起源に深く関係していることが分かってきてからは,俄然面白くなっていった。

 1987年の3月の物理学会は名古屋工大であったが,もちろん,急遽,飛び入りで高温超伝導のシンポジウムが開かれた。会場となった講堂は報道陣も来るし一杯で,熱気に溢れていた。一人一律2分の発表であったが,発表者が多すぎて,予定時間を大きくオーバーして夜遅くまで,発表・質問・議論が続いた。4月から分子研での生活が始まった。研究室の他の人たちは毎日,粉を混ぜて,焼結し,焼結体の測定を繰り返していたが,私は一人,トンネル分光という経験したことのない測定をすることになった。ひたすら,スペクトルを採る毎日で,正直なところ面白くなかった。多結晶なので,クリアーなスペクトルは出ず,いつもブロードなスペクトルで,これから何が言えるのだろうか,と悶々とした日々を送った。トンネル分光の実験は9月で終わり,10月から他の人たちと同じように,粉混ぜから通常の測定までをやるようになった。研究室には他に,助手一人,技官一人,北大から博士課程後期学生一人,企業(トヨタ,電装,旭硝子)からそれぞれ一人ずつの総勢8人であった。測定器の数値をノートに書き取ってグラフ用紙にプロットするという作業の繰り返しであったが,だんだん面白くなっていった。そのうち,佐藤先生から比熱測定をやってくれといわれ,装置作成・測定を担当することになった。ここで東北大学で藤田先生(後広島大)の指導の下で測定を経験したことが役に立った。高温超伝導発見の初期の段階から,超伝導状態にあっても低温比熱に温度に比例する項が存在するというアンダーソンの予想があり,それを確かめようというのである。装置作成中のことであるが,La2-xBaxCuO4の比熱測定の結果アンダーソンの予想が当たったという報告があり大きく取り上げられ,焦ったが,もっと転移温度の高いBi-2212という物質の比熱を測定し,低温比熱に温度に比例する項が存在しないことを示すことができた。La2-xBaxCuO4の以前の報告では,一番肝心なx濃度の試料の測定がなかったことも幸いし,結局La2-xBaxCuO4でも私たちの結果と同じになった。そのとき私にも運が向いてきたかな,とそれとなく感じることができた。その後,1/8問題で成果も挙がった。また,それまで経験したことのなかった熱起電力,熱伝導度の測定装置作成・測定をやらせてもらうことができ,多くの経験を積むことができた。

 当時,高温超伝導の泊り込みの研究会が頻繁に開かれ,国内のほとんどの大学に高温超伝導研究者がいたこともあって,非常に多くの知り合いができた。希土類一筋で生きていたらあり得なかったことである。分子研の3年間は土日無しの朝9時から夜中2時までの研究三昧で睡眠時間が取れないという点では苦しかったはずであるが,それ以上に高温超伝導の面白さを体験するという幸運に出会ったことの方がはるかに強烈な印象としてよみがえってくる。自分の将来がどうなるかを考える暇もなく,ひたすら研究に打ち込むことができた。当時の世界中の高温超伝導研究グループでは,どこでも似たような状況にあったことは容易に想像できる。それほど,高温超伝導発見は世界中の研究者を虜にするほど魅力あるテーマであったし,特許がらみの結果が出ることが多かったことも一因であるが,研究成果を一刻も争うほど早く公表しなければ,という状況であった。私にもこんな経験がある。1月の寒い日のことであるが,論文を郵送すると1日かかるので,名古屋朝一の新幹線で上京し,直接手渡してくれ,と言われた。文京区本郷に住まわれていたSolid State Commun.編集委員の佐々木先生(佐藤先生は佐々木先生の最初のお弟子さん)のお宅まで,論文を届けに行った。和服で玄関に出てこられた佐々木先生の驚かれた顔は今でもよく覚えている。事情を話すと納得された。それほど競争が激しかった。また天皇陛下(当時皇太子)が分子研に来られ,佐藤先生が3分間,パネルの前で説明されるという,それほどの高温超伝導フィーバーであった。実験風景も見ていただくのが良いのでは,ということで,パネルの後ろで研究室メンバーは実験している仕草をしていたが,皆下を向いて顔を上げることができなかった。

 人生には大きな転機(チャンス)が何度かあると思う。最初の転機は,東北大学で糟谷先生の指導を受けることのできる研究室に所属したことにあるが,高温超伝導はそれにも劣らないかけがえのない転機を与えてくれた。その後,再び希土類の研究に戻り,昨年から銅やコバルトを含む化合物のフラストレーションという新しい分野の研究に飛び込んだ。これがまた面白い。はじめは,自分がいかに無知であるかを思い知らされ勉強するが,しばらくするとあれやこれや自分で考えることができるようになる。定年近くになってこういうことを経験できる幸せを今思う存分感じている。

 

(2016年4月27日掲載)


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