第8回 栗木雅夫教授

第8回 「科学の社会貢献」

栗木 雅夫 教授

 私が大学院生として米国に滞在していた1993年に、米国議会はSSC(Super-conducting Super Collider)の建設中止を決定した。SSCは超伝導加速器による周長86.6kmの陽子衝突型加速器で、現在のLHC(Large Hadron Collider)の約3倍の規模、重心系衝突エネルギーを目指したものである。その後ライバルだったLHCはヒッグス粒子の発見など華々しい成果をあげているのは、ご存知の通りだ。SSC中止の最大の原因はその建設コストの増大である。当初5000億円(4.4 billion USD)だった建設コストは、最終的に1兆4000億円(12billion USD)まで跳ね上がったといわれている。中止は建設開始後であり、すでに2000億円以上が支出され、トンネルも27km近くが掘削済みであったが、計画の中止とともに、すべて埋め戻された。

 計画中止の直接の引き金は建設費の問題であったが、より根本的な原因はワインバーグが指摘するように冷戦の終結である。米国とソビエトの冷戦は軍事力だけではなく、経済、科学、文化とあらゆる面で大きな影響を与えていた。自らの優位をしめすために、あらゆる機会をとらえて、採算を度外視した投資がなされており、アポロ計画なども例外ではない。これは有名な話だが、かつて米国フェルミ研究所の当時のウィルソン所長が大型加速器建設予算について議会の公聴会に呼ばれ、加速器による研究の成果は、米国の防衛に貢献するのかと問われ、「残念ながら、加速器による研究の成果は米国と同盟国の防衛にはまったく貢献できない。しかし、米国は守るに値する国になる」と述べたといわれている。その後、フェルミ研究所の予算は無事承認されている。1960年代には、科学はある種の特権を持っていたのである。SSCの中止は、その特権はもはや無くなったことを明確に物語っているのである。
 SSCが中止された一方で、ISS(宇宙ステーション)や、前述したCERNのLHCは、その巨額の予算にも関わらず推進されている。その差は何なのだろうか。ISSには将来の宇宙開発の利益に対する期待があるが、LHCは純粋な基礎科学で、利益には結びつかない。CERNは1954年に設立された国際機関で、欧州を中心としたメンバー国の支出により運営されている素粒子物理学の研究所である。その設立趣旨は、戦争により荒廃し立ち遅れた欧州の物理研究を復興し、戦勝国と敗戦国の科学者が協働する場所をつくり、それにより地域の平和を構築することにある。”Science for Peace”がCERNの基本理念であり、浅薄なナショナリズムなどとは異なる原理でCERNは運営されている。

 1954年の当時と様相はかなり異なるが、欧州、そして世界は、決して平和にはなっていない。むしろ、1990年代の軍事専門家が指摘したように、戦争は国家間の争いから、地域の、より細分化された紛争の多発という新しい位相へと移行したように見える。CERNの存在意義は、むしろ強まっているとも言える。ELI(Extreme Light Infrastructure)はEU主導の大強度レーザー開発プロジェクトで、ソビエト連邦の消滅の影響により沈滞する東ヨーロッパ地域の研究の振興と、進展著しいレーザーをはじめとする光源開発を戦略プロジェクトとして推進することを目的としている。科学による地域振興という手法は、欧州では普通のことである。

 東京大学のカブリIPMU機構長の村山斉氏(専門は素粒子理論)は、国連本部での演説で次のように述べている。「私たちは地球という名前の小さな岩の上に住み、その岩は太陽と呼ばれるごくごく平均的な星の周りを公転し、太陽は天の川銀河の中心から27,000光年離れた田舎にあり、天の川銀河は観測可能な範囲の宇宙にある1000億個の銀河の一つです。大きな目で見ると、我々の間の違いはとても小さく見えます。新聞で毎日のように読む戦争、紛争、悲劇、貧困、疫病について、違った見方をさせられます。この小さな岩の上に住む私たちヒトという生物は、手を取り合って行動することが出来るはずだと思うのです。」と、人間の可能性を論じるとともに、CERNをはじめ、中東ヨルダンで建設中の放射光施設のSESAMEなどでは、現実に敵対する地域の研究者が協働し、平和の構築に向けた力になっている、と論じている。さらに「世界にはCERNの様な場所がもっとあるべきです。個人的には、アメリカや日本がこうした基礎科学のための国際組織をホストして欲しいと思います。特に子供たちを含め、近辺の住民がグローバルな視点を持つようになります。このように科学が、惑星地球の平和と発展に貢献できるように、私も努力していきます。」と、国際的な研究拠点の必要性を強調している。

 広島は原爆が実際の戦闘で使用された初めての地であり、広島大学は世界平和構築への貢献を大学のポリシーとしている。基礎科学は直接的には平和とは何の関係もなさそうに見えるが、物理、そして広く科学の価値観とは、ユニバーサル、すなわち世界は単一であるとする考えであり、実は平和を希求する精神そのものである。その目で世界を見渡してみれば、いまだに古いパワーポリティクスから抜け出せない米国と、その米国が少なくとも巨大科学の分野では存在感を急速に減らしているということ、それに対して存在感を相対的に増大させる欧州である。

 現在、日本は国際リニアコライダーという国際科学プロジェクトの建設候補地となっており、筆者も日本政府が正式にこの計画に乗り出すことを心待ちにする一人である。この計画は、全世界が協力して推進している次世代の素粒子物理学の大型加速器であり、それが実現すれば、CERNに匹敵、いやそれを上回る研究施設となる。世界から研究者が集結する拠点は、ユニバーサルな文化を醸成し、日本や地域の発展のみならず、村山氏が述べるように平和構築にも貢献できるはずだ。かつて東アジア共同体が提案された時期もあったが、最近は領土問題や、軍事問題など、きな臭い話題がこの地域には多い。しかしかつての欧州は、それを上回る反目、敵対、惨禍に満ちており、EUによる統合など夢物語であったろう。欧州にできて東アジアにできないという理由はどこにも無い。科学がその嚆矢となることができれば、これ以上の社会貢献があるだろうか。

(2016年9月30日掲載)


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