第9回岩下和裕客員教授

バイオのつぶやき第9回
岩下 和裕 客員教授

2016年3月9日

  “お酒の中に本音がある”これがタイトルにした英文の通常の和訳である。お酒を飲むと気が緩んで、普通は話さない夢や希望、あるいは不平不満などをついつ い語ってしまう。筆者も、振り返ると後悔の念を抱く思い出が多くあり、気恥ずかしくなってしまう。本文を読んでいらっしゃる方にも、“あるある”と頷いて しまう方もいらっしゃるのではないだろうか?
  その一方で ”Truth” を“真理”と訳せば、研究者にとっては示唆に富んだ奥深い言葉となる。お酒が関連する研究の中から多くの科学的な真理が発見されているのである。例えば、 微生物学はロベルト・コッホとルイ・パスツールにより始まったとされている。そのパスツールの最大の業績は、白鳥の首のフラスコを使って腐敗や発酵が目に 見えない生物(微生物)により行われていることを示したことである。いわゆる自然発生説の完全な否定である。ちなみに、“酵母”と言う微生物がエタノール 発酵を行うことを示したのもパスツールである。その後、ブフナーは、この酵母をすり潰した液がブドウ糖をアルコールに変えることを示した。“酵素”が初め て発見された瞬間であり、のちにこの業績でノーベル賞を受賞することとなる。時代は飛んで、生命現象を分子レベルで解析できるようになると、酵母はガン化 に関わる細胞周期の研究や細胞の中で、物質を輸送する仕組みに関する研究で複数のノーベル賞を産んでいる。また、生物の設計図が格納されている“ゲノム” についても、酵母は真核生物で一番早く全ゲノム配列が解析された。清酒に関わるもう一つの微生物、麴菌の全ゲノム配列もNatureに掲載されている。そ の他、抗生物質のペニシリンに耐性を持った細菌が問題になっているが、この耐性のメカニズムを壊すAspergillomarasmine Aという物質が発見されNatureに掲載された。この代謝物を麴菌は作ることが出来る。ここに挙げたのはほんの一例に過ぎないが、お酒に関連することか ら多くの科学的な知見が得られている。
  それでは、なぜこんなに“お酒でサイエンスが出来る”のであろうか?
  簡単に言ってしまうと、お酒造りは生命現象そのもので、人との関係が深いからであろう。酒造りは穀物や果実を使い、もろみタンクの中では微生物が発酵を 行っているが、タンクの中の現象と人間の体内で起こっている現象は共通点が非常に多い。そしてお酒は人を酔わせるのである。太古の昔より人はお酒に魅了さ れてきたのである。そして、この“酔う”と言う現象も興味深い。「人間は考える葦である」という言葉があるが、“考える”ことが人間であるために重要とい う事である。これらの処理をしているのは人の脳である。脳の中はまだ不思議なことが非常に多い。では、お酒を飲むとどうなるか?当たり前のことであるが、 飲むと酔い、軽い飲酒では思考は活性化されるが、徐々にお酒が進むとだんだんと鈍り判断力が低下し、さらに飲みすぎると失われてしまう。大切な“考える” 機能、脳の機能が低下して一時停止してしまう。しかし翌日、十分にお酒が抜けてしまえば元通り。これを逆手に取りアルコールを上手く使うと、人に害のない 条件で思考のメカニズムを研究できるかもしれない。
  その他にも、人の嗜好についても面白い研究が出来る。これまでの報告で、日本酒の中には300種類以上の物質が見つかっており、お酒の味の違いは、これら の成分が複雑に絡まって出来ている。日本酒やビールやワインなど、味も香りも全く異なるが、その違いは多くの成分のバランスが作り出す絶妙な違いなのであ る。ところが、お酒に含まれる成分の割合としてみると様相は全く異なってくる。お酒という液体の約97%はH2Oとエタノールと言うたった二つの成分に よって構成され、残りの数100種類の成分はわずか3%の中に含まれる。この3%の成分が絶大な味の違いを作っているのである(下図) 。しかも人はこの 複雑な成分をどのように感じて(処理して)好みの違いが生まれているのかという事は、良くわかって分かっていない。

お酒のおいしさ 奇跡の3%

これらは人の研究であるが、お酒に関する微生物の研究でも不思議なことは多い。日本酒の製造に関わる酵母以外の微生物、“麴菌”は日本の“国菌”である。 この全ゲノム配列は10年前に決定され遺伝子も12,074個と予想されたが、その半分の遺伝子機能は全くわからない。しかも、この10年間で実際に研究 されたのは、わずか400遺伝子である。麴菌は、醤油や味噌、米酢の製造などに1000年以上も利用され、“和食”の根底を支える微生物でもある。そんな 身近な微生物にもかかわらず不思議なことが満載だ。お酒が研究者を魅了し、多くの夢を生み出す日々はまだまだ続く。

米国アシロマでの糸状菌の国際学会にて

米国アシロマでの糸状菌の国際学会にて(麴菌の酒や文化について語り合う)


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