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広島大学大学院人間社会科学研究科「教育ヴィジョン研究センター(EVRI)」は、2025年11月7日(金)に、定例オンラインセミナー講演会No.188「記憶の教育学―東アジアにおける和解と平和のための困難な歴史の授業―」を開催しました。大学院生や研究者を中心に73名の皆様にご参加いただきました。
はじめに、金鍾成准教授(広島大学)より、本セミナーの趣旨が説明されました。本セミナーの目的が、東アジアにおける「記憶」と「歴史」をめぐる教育的課題を改めて見つめ直し、日韓をはじめとする当地域で「困難な歴史」をどのように教え、語り継ぐことができるのかを考えることであるという趣旨が確認されました。金准教授は、韓国の教育社会学者イム・ジヒョン氏の言葉を引用しながら、歴史が「過去と現在の対話」であるならば、記憶は「死者と生者の対話」であると述べました。そして、東アジアで繰り返されてきた慰安婦問題や徴用工問題、領土問題などの「記憶戦争」に触れながら、過去を単なる事実として学ぶのではなく、今を生きる私たちが「記憶する責任」をどのように引き受けるかを問う場にしたいと語りました。
趣旨を説明する金鍾成氏
次に、チャボウン氏(延世大学教職大学院)より、話題提供がなされました。チャ氏は、もと小学校教員であり、現在は大学で教育学を教える立場から、フェミニズム、批判的教育学、ポストコロニアリズムの視点を交え、自身の研究を紹介しました。韓国の社会科・歴史教師へのナラティブ・インクワイアリーをもとに、教師たちがどのように「軍慰安婦」という抑圧された記憶を授業に取り入れているのかを分析しました。教師たちは、「慰安婦」問題を「日本への怒り」ではなく、「人権・ジェンダー暴力・社会的抑圧の問題」として扱い、水曜デモや人権博物館の訪問、映画や証言資料の活用などを通して、生徒が被害者の経験を多面的に理解できるよう工夫していることが示されました。こうした授業は、ナショナリズムを超えて他者の苦痛に共感する「トランスナショナルな教育実践」であり、感情を排除するのではなく、倫理的に扱う教育の可能性を提示していると語られました。
発表するチャボウン氏
次に、山名淳氏(東京大学)より、指定討論がなされました。山名氏は、教育哲学の立場から、チャ氏の研究が提示する「記憶の教育学」と自身の研究とが重なり合う点を指摘しました。とくに、記憶を「文化的インフラ」として捉え、個人の記憶と社会の集合的記憶の相互作用の中に教育の営みを位置づける重要性を強調しました。また、チャ氏に対して三つの問いを提示しました。すなわち、①歴史と記憶の関係性、②他者の苦痛を想像させるフィクションや芸術表現を証言として教育に含めることの可能性、③公的ナラティブへの認識論的抵抗がいかに和解へとつながりうるか、という点です。これに対しチャ氏は、歴史を「公的に制度化された記憶」として捉え、そこからこぼれ落ちる個人や少数者の声を掬い上げることこそ教育の役割であると応じました。また、「教育とは知識への闘いであり,学びの過程にある不快さや葛藤こそが理解への入り口になる」と述べました。
発表する山名淳氏
以上の講演を受けて、ディスカッションが行われました。学校が集合的記憶を形成する場として持つ可能性と限界や、韓国における博物館教育と学校教育の連携のあり方、記憶がもつ政治性を教育の中でどう扱うかなどが話し合われました。山名氏は、学校を「単一の語りを伝える場所」ではなく、「複数の記憶が交差する場」として捉える重要性を指摘しました。一方でチャ氏は、「教えること自体が政治的な行為であり、教師がどの立場から語るかを自覚することが教育の倫理である」と述べ、韓国では人権教育や市民性教育の枠組みの中でその実践が支えられていると紹介しました。また、参加者からは「憎しみの記憶を教えることの是非」に関する質問も寄せられましたが、チャ氏は「誰かを恨むための教育は教育ではない」と明言し、「慰安婦」に関する教育が反日教育と誤解されることへの懸念を表明しました。
ディスカッションの様子
最後に金准教授よりまとめがなされました。今回のセミナーを通じて、「歴史」と「記憶」を対立的に捉えるのではなく、両者のあいだにある「語りの空間」にこそ教育の可能性があることを再確認したと述べました。「困難な歴史」を教えることは、過去の痛みを再現することではなく、他者の苦痛に向き合い、感情と倫理を媒介にして平和を構想する営みであるとまとめ、今後も日韓、さらには東アジアの教育者が対話と協働を重ね、記憶を通じた平和的共生の道を探り続けていくことの重要性を強調してセミナーを締めくくりました。
広島大学教育ヴィジョン研究センター(EVRI) 事務室

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