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研究者への軌跡

夢の光のとりこ

氏名:中島 伸夫

専攻:物理科学専攻

職階:准教授

専門分野:放射光を用いた固体電子分光

略歴:理学研究科助教授。博士(理学)。 1968年生まれ。東京工業大学理学部卒業、同大学院理工学研究科修士課程・博士課程修了。高エネルギー加速器研究機構COE研究員、弘前大学理工学部助手を経て現在に至る。専門は夢の光・放射光を用いた固体電子分光の研究。大学入学時の教養時代に従来のX線光源をはるかに凌駕するシンクロトロン光(放射光)の魅力に取り付かれて以来、幾多のわがままを貫いて放射光業界に滑り込む。傍流から一発逆転して本流となる日を夢見つつ、日々ひらめかない頭脳を酷使する。家族と過ごす週末の休息が次なる研究を邁進するための活力の元になっている。

 

プロローグ
私は大学を“卒業”できないでいる。いや、むしろ“卒業”したくないほどに科学の魅力に取り付かれてしまったのかもしれない。
 

自己中心の挫折
それなりに部活動(水球)に明け暮れたからか、単に不勉強だったのかは今となっては忘れてしまったが、1年間の浪人生活の末に大学に入学した。暫くは復習中心の授業とにわか勉強の知識でそれなりに好成績を収めることができ、大学生活を楽しんでいた。ややもすれば、やっぱり世界は自分を中心に回っていると天動説の復活を唱えようとさえ考えていた。

が、しかし、やっぱり、である。ドラえもんののびた君と同様に、世の中そんなに甘くはなかった。自分の思い描いていた科学者とは、常にクールでカッコよく、メガネの奥から冷静に問題に取り組んでいるモテモテな存在であった。しかし、現実の私はメガネ以外まるで正反対であった。それなりの好成績を納めていたのならば、モテないことは仕方ないとして科学者の道へは無理なく歩めたのではないのか?これまたNoである。物理学をやりたい!超弦理論をやりたい!という憧れだけで物理学科に進学したが、どうにも自分の思っていた「面白い」物理ではなくなっていた。素直に自分の非才を認める潔さはなく、さりとてすっぱり大学を辞める意気地もなく、ただ世間体だけを気にして大学に通っている自分がいた。

悶々とした日々を送りながら、何とか大学院に進学した。「進学した」と書くと聞こえがいいが、単に世間体を気にしてとりあえず大学を「卒業」せずに大学院に身を寄せただけである。しかし、そんな日がいつまでも続くはずも無かった。実は、私にはどうしてもやってみたいと思う実験があった。大学入学直後の授業、化学科の籏野嘉彦先生のたった90分の講義がここまで自分の身を助けることになろうとは、そのときは想像もしていなかった。「夢の光−放射光」、いままであきらめていたことが何でもできるようになる、これまでの常識を打ち破る結果がどんどんと出てくる、若い皆さんこそがこの新しいサイエンスの主人公になる、、、。次々と繰り出される籏野先生の言葉のマジックにすっかり酔いしれていた。そうだ、まだ可能性があるかもしれない、大学院を辞めてでも「放射光」の世界に飛び込んでみたい。そう決心した翌日、飯尾勝矩先生に「直訴」した。

先生から提案された課題をロクに勉強もせず、挙句に自分のわがままばかりを主張する若輩の居場所はあるはずもない。親にも勘当され、結局は希望の世界にもいけないまま腐り果てていく自分を想像していた。気もそぞろに学会発表の相談を1時間以上した去り際に、「放射光がやりたい」とポツリと言い捨てた。あぁ、これでもうおしまいだ。先生、これまでありがとう、もうご迷惑はかけません。さようなら。

ところが、帰り支度を始めかけていた先生がさらにその後2時間以上にも渡って私のわがままを叶えるべく、親身になってご相談して下さったのである。身内以外の人物がこれほどまでに自分のことに身骨を砕いて下さるのは始めての経験だった。このご恩には未だ報いることが出来ずにいる。せめて私の学生さんたちは、私が自由を奪うことをしてはいけないとたびたび思い起こしている。
 

支えあっての放射光
博士課程では大学の校舎を飛び出し、籏野先生が宣伝されていた日本で最先端の放射光施設フォトンファクトリー(光工場の意味)で実験を行っていた。確かに楽しかった。それから一足飛びに10余年が経って現在、未だに放射光を使った実験を行っている。実験手法も、測定する試料も格段に広がり、もはや学生さんたちの力添えがなければ、実行不可能である。放射光施設も日本各地に建設され、すでに凡才な私には理解できないほどに大きな広がりを持って発展している。しかし、何にも増して幸せなことは、ここ広島大学には国立大学法人としては唯一の大学付属の放射光施設があるのである。やりたい!と思う実験が自由に出来るこの環境を今は素直にありがたいことと感謝している。自分の強運にいささか気おくれしながらも、自分がやりたいと思うことを貫き通してきたことが曲がりなりにも研究者としてやってこられた原動力なんだと感じている。

もちろん、忘れてはいけない大事なことがある。決して感傷的にいうのではなく、人類普遍の真理といってもいいことであるが、今現在自分があるのは極めて多くの方々の支えや導きがあったればこそである。科学というものは人間の意志を排除した物質世界の普遍原理だと思いがちであるが、科学を理解するのもやはり人間である以上、不思議と人間くさい情のような部分も必要なのである。人との関わりを大事にし、常に感謝の気持ちを持って臨んでいくことが、科学の世界でも一番大事なのである。
 

エピローグ
放射光の魅力に取り付かれて20年。精神年齢18歳のまま、未だに大学を「卒業」できない自分がいる。


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