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研究者への軌跡

素粒子の世界線、物理の世界面

氏名:両角 卓也     

専攻:物理科学専攻

職名:准教授

専門分野:素粒子論

略歴:1961年東京生まれ、釧路市出身、釧路湖陵高校卒、84年東北大学物理学科、89年京都大学理学研究科博士課程終了、ロックフェラー大学、トロント大学研究員を経て広島大学助手、現在同准教授

 

小学校のころ、ポプラ社の伝記シリーズの中の湯川秀樹の伝記を読んだのが最初の出会い。算数の難問問題集(文章題の難しいやつ)を片端から解く。補習のために兄の行っていた算数の私塾にいったが教える必要がないので来なくてもよいといわれた。
 

学校の先生:小中学のころ、新設の地元釧路の北海道教育大学付属小中学に通う、白樺という郊外の地区にバスで1時間ぐらい。 小学校の担任の先生は公平な先生、教育実習の先生の授業で肩肘を突いて聞いていて後で叱られました。人によって態度を変えるのはいかんというのを教わった。中学はいろんな科目で“科学的”な教育法が試行されていた。理科では仮説―実験―結果の吟味という一連の過程に基づいて授業が行われていました。 地理や歴史の授業も暗記ものではなく、いろんな歴史の事象の関連などを論理性をもって教えていました。特に理科の先生がよく口にした言葉に吟味という言葉がありました インターネットのない時代、釧路の繁華街にある山下書店というところに行くと参考書と並んでいろんな本がおいてありました。
 

高校は地元の釧路湖陵高校の理数科に行きました。“エリート”クラスだったのですが先生も面白い先生が多かった。友達もいろんな中学から来ていて、それまでのすこし管理されていたところから広いところへ放りだされたた気がしました。 このころ地元の釧路新聞社の奨学賞をもらいました。僕が少しためらっていると担任の数学の米永先生がもらえるものはもらっておけ。インタビューに数学{勉強}なら両角に聞けという感じだとコメントしてくれた。数学の講義は独自のプリントなどを使ったやり方で、とてもおもしろかった。このころ広中平祐氏がフィールズ賞をとり、とても印象的な出来事でした。
 

高校も学年を進むと少し成績も下がってきました。友人の中には勉強だけでなく将棋もめっぽう強いとか”本当にできる”というのは、学校の勉強の世界の中だけではないんだなと分かってきました。もう少し線が太くならんと(体のことではないです)。 さて大学進学です。第一志望が京大、第二志望が東北大 共通一次試験の物理で半分ぐらいしか取れなかった。先生が予備校を通じて得点調査をしてくれて京大はあきらめるうように言ってくれた。東北大を志望したのにはいろんな理由がありますが、当時の大学受験案内の本に一番大きい理学部である。とかいていたからです。あとは北海道から出てみたいという気持ちもありました。
 

東北大の1-2年のころは比較的ゆったりしていて、物理の講義も週一回のほか理論物理入門という輪講形式の講義がありました。 前者は一般力学(山内著}後者はスレーター行列で有名なスレーターフランクの本を使っていました。このころ兄に慶應ではファインマン物理という教科書を使っていると教えてもらいました。とにかく時間がたっぷりあったので授業の合間や放課後に大学の図書館に行って、ファインマン物理を毎日読みました。量子力学の間まで読破するのに2年ぐらいかかったと思います。量子力学の巻もおもしろかったのですが他にも弾性体や応力のこととか、最小作用の原理、湯川の中間子論のことなどにも触れてあってとにかく夢中になりました。仙台の一番町の木造のアパートを借りている友人がいて時々遊びに行きました。ワインを飲ませてくれて、岩波の数学講座のシリーズがずらっとあり、広田のソリトンの話とか僕の全然しらない数学者や物理学の話しを聞いてとても刺激を受けました。 実験はあまり得意でなかったのですが一度だけうまく言ったことがあります。それは超伝導のSQUIDという素子で振動電流{ジョセフソン効果}をみるものでした。夜遅くまで青葉山の実験室で実験して振動電流がでたときはとてもうれしかった。当時原理はあまりよく分からなかったのですが、レポートも僕らのチームは最高点をもらいました。
 

いろんなところで現在の研究につながるヒントが。大学院の修士の2年に最初の論文を書きましたがそれ以来取り組んできたテーマは、実際に研究に取り組み始めるよりだいぶ前にいろいろ人の話を聞いたり自分で少し勉強したりしてきたことがだいぶ後になって発現することが多いようです。先輩や東北大時代の友人がテーマをくれたりや計算の大部分をしてくりたりした論文もあります。大学院の講義やゼミも今考えるともったいないのですが、猫に小判、馬の耳に何とかで聞く方の準備がないと。修士1年の講義の中で福来先生が最後の授業のところでバリオン数とレプトン数の差が破れが何とかという話をしたのを覚えています。そのときは自分の研究テーマになるとは全く意識していませんでした。 銭湯でも議論。下宿には風呂がなかったのですが京都大学の周りには銭湯が多く、僕もそこで風呂を浴びることが多かったです。当時、湯川研究員で基礎物理学研究所に来ていた宗さんと一緒に銭湯で計算の話やらしていたこともありました。
 

博士課程の1年の終わりごろ、河本先生に高エネルギー物理学研究所(KEK)で受託大学院制度というのがあるから行ってみてはどうかといわれ、博士2年からKEKに行くことに成りました。KEKでは実験と関連した理論研究を始めました。当時K中間子の崩壊でCP対称性の破れを検証しようという計画を京大を中心とする実験グループが始めていました。実験グループに自分と同期の仲間が居て、お前は理論家だからこの論文分かるだろ?と6元クオーク模型におけるK中間子のCPの破れとか論文を渡されましたが、さっぱり分かりません。このころ標準模型から勉強しなおして、2年ぐらいかかって実験に関連する理論の論文を書きました。
 

PD時代。博士の3年ぐらいになるとその後どうするか。幸いKEKでは同世代や先輩たちがポストドックに応募するのは普通だよという雰囲気があって、林先生から応募先リストをお借りして、50通ぐらい手紙を書いて海外に応募しました。2月か3月ぐらいにニューヨークのロックフェラー大学の三田先生から、PDできてよいといわれ、その赴任が最初の海外旅行になりました。五番街やセントラルパークまで徒歩で15分ぐらいのところに大学が借りているアパート(中庭付のマンション)で音楽などもカーネギーホールやいろいろ気晴らしをするにはもってこいです。実際にはほとんど休みもなく研究していました。夏休みには自分のところを離れて米国内の研究所やヨーロッパの研究所を訪問することができました。そういうところで新しい共同研究を始めたり、知り合いも少しずつ増えました。PDの2年目の夏、ドイツのハンブルク(DESY)からパリ(エコール ポリテクニク)ポルトガルのリスボン(IST)そして最後はジュネーブの高エネルギー会議に参加するという研究旅行をしました。全て列車の旅で訪ねたところで共同研究やセミナーをする武者修行です。
 

ニューヨークには3年いてその後、カナダのトロント大学に移ることになりました。ちょうどブルージェイズが大リーグ初優勝したときでした。半年ほどして広島大学の助手のポストに応募して、広大に赴任することになりました。日本に戻ってきてしばらくして東北大でセミナーをする機会がありました。準備不足のクオークの質量階層性を説明するアイデアを柳田先生に打ちのめされて、広島に戻ってきました。それがきっかけで先生が提唱したシーソー機構というニュートリノの質量を説明するアイデアを前より真剣に勉強するきっかけになりました。物理学会でニュートリノ実験に参加していた大学院の先輩にニュートリノ振動実験で宇宙の物質、反物質非対称性を説明すると宣伝しているのだけど、どう思うか?と聞かれ、この関係の有無を真剣に検討しようと考え始めました。大学院生の遠藤君や同僚の大野木さん、インドネシアからの留学生のプルワント君と一緒にこの問題に取り掛かりました。この研究にはそれまでやってきた、いろんな研究が直接、間接に役に立ちました。ただ、最初の論文はどちらかといえば関係が薄いという慎重な結論になりました。その後、文部科学省の在外研究員で欧州原子核研究機構(CERN)の理論部へ半年滞在する機会に恵まれました。そのときにPD時代に同じ大学に居たポルトガルのREBELO氏や一緒に論文を書いたブランコ教授に再会しました。今ニュートリノのCPの破れと物質反物質非対称性の関係を調べているんだと話すと、早速彼らも興味を持ってくれました。彼らは、CPの破れを研究するのに非常に強力な方法を開発してきました。ブランコ氏は僕らの前の論文を読んで、関係が薄いことを強調するより、どういう場合に関係があるかということを調べたほうがいいのでは?といってくれました。こうしてBridge between CP violation at low energies and leptogenesisという論文が出来上がりました。"Bridge"は橋という意味です。ちなみに共著者のNobre君は神父になる勉強をしているそうです。
 

今後:広島に来てからカープを応援していますが、カープに負けない強い物理のチームをつくりたいですね?


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