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研究者への軌跡

広島発!宇宙の構成要素を求めて人生を掛けた旅

氏名:大杉 節

専攻:物理科学専攻

職階:教授

専門分野:高エネルギー物理学(素粒子実験)、高エネルギー天文学、高エネルギー放射線検

略歴:1944年広島市生まれ、広島大学付属高校から広島大学理学部物理学科へ。1971年大学院理学研究科博士課程中退、理学部助手となる。1972年理学博士、1976〜78年 Ferm National Accelerator Laboratory博士研究員をへて1978年理学部助手復帰、助教授を経て、1999年理学部教授、2000年大学院理学研究科教授、2004年より宇宙科学センター長併任、現在に至る。専門は高エネルギー物理学(素粒子実験)、高エネルギー天文学、高エネルギー放射線検出器・人工衛星搭載検出器開発。研究生活の大半を国際共同研究として行った。国外に多くの知己を持てたことを幸せに又誇りに思っている。

 

現在、宇宙科学センター長を勤めており、広島大学宇宙科学センター附属東広島天文台の建設から、望遠鏡設置、観測装置開発、観測と研究成果を上げるフェーズへと張りつめた、充実した毎日を送っている。しかし15年前には想像も出来なかった現在の姿である。15年前には、世界最大の超伝導超大型加速器(SSC)建設計画にどっぷり浸かっており、半導体センター飛跡検出器部門の副部長として毎月、米国に出張するような生活を送っていた。完成後はその研究所で研究者生活を送るつもりでいた。残念ながら、米国大統領の交代をきっかけに計画は建設途中で中止となり、私の研究人生計画も変更を余儀なくされた。しかし、そのSSC計画の中で築いた半導体放射線検出器開発の名声がその後の研究人生のチャンスを切り開いてくれた。その頃始めた「半導体飛跡検出器の開発と応用に関する国際シンポジューム」は世界中から専門家が集まるHiroshima STD symposiumとして定着し、今年第6回を開催した。また半導体検出器技術が買われてCDF実験グループに参加し、最も重要なセンター検出器を改良する半導体検出器開発を任された。その実験グループの一員として、1995年にトップクオーク発見の栄誉を共有する事が出来たのは幸運であった。半導体検出器技術で世界をリードしたことは、宇宙への道も開いてくれた。NASAとDOEが初めて組んで計画した宇宙ガンマ線観測衛星開発計画に、半導体検出器技術を持って参加するように要請された事である。この宇宙ガンマ線望遠鏡開発計画(GLAST)参加、引いてはこの衛星を用いた高エネルギー天体観測方面への展開は、すざくX線観測衛星衛星とX線天文学、高エネルギー天体の可視光望遠鏡によるフォローアップ観測へと発展し、最終的に広島大学東広島天文台建設までに至ったのは多少の幸運と、多くの理解ある人々の支援のおかげだ。この天文台には我々広島大学の関係者以外にも多くの人々の思いが込められている。
 

少年時代に野山や川で昆虫、魚、木登り等に日の暮れるまで夢中になって遊び遅い帰宅によく叱られた。遊び道具は親父の大工道具を拝借して自分で工夫して作った。私の手はその頃の古傷の跡でいっぱいである。これらの体験・訓練が成長後の私の実験物理家としての原点であった。私に宇宙を意識させたのは何時だろうか?記憶に残っているのは最初の人工衛星であるスプートニク(ソ連が打ち上げた世界最初に人工衛星)を中学の校庭から理科の先生の指導で見たことであろう。大学で物理学科を選んだのは、湯川・朝永両先生へのあこがれであった様に思う。4年生の卒論、大学院進学で素粒子実験物理を選んだのは新しい素粒子実験研究室が前年に出来た事の偶然と、少年時代の体験が理論より実験を選ばせた。素粒子物理こそが宇宙の謎を解く鍵だとその時代には思っていた。
研究室も当時としてはとてもユニークであった。素粒子実験は全国共同利用の東京大学原子核研究所で行われており、私の参加したグループは東京大学、名古屋大学、広島大学の教員の共同実験グループで、学生は東北大学、名古屋大学と広島大学から参加していた。従って学生の教育は所属大学の枠を全く感じることなく、全教員と全先輩から受けた。同時に実験研究に関しては対等な研究者としての扱いを受けた。全員で方針を討議し全員に役割と責任を割り振った。慣例として我々のグループではその実験データで博士の学位論文を書く予定の大学院生がその実験全体の指揮を執ることになっていた。場合によっては学生が先生を使うのである。この環境に強い刺激を受け、同時に新しい加速器建設計画が検討されていたことから将来発展する分野であることを確信し、この分野で研究者になろうと決心をした。
 

もう一つの大きな転機は博士の学位を取得後、当時最先端研究を行っていた米国の研究所で博士研究員として2年間研究するチャンスを得た事だ。まさしく大きなカルチャー・ショックを学問の世界と、日常生活とで二重に受けた。研究の分野では、毎週、世界の第一線研究者のセミナーがあり、研究所の全ての研究者がそれぞれ世界のトップを目指しているのには驚いた。滞在中に隣のグループがボトムクオークを発見して研究所中が大変な興奮状態になった。それは世界的成果を上げるチャンスがすぐ側にあることを証明して見せた。生活分野においては、政府の基準・規制・保護があり、国民大衆はそれに従っている限り頭を使うことも心配することもなく日常を過ごすことが出来る日本と、犯罪行為以外はほとんど規制・基準がなく全てが個人の才覚で決まる自由の社会、米国との違いは驚きだった。所得税の減免まで税務署係官との交渉次第で変わってしまう世界だ(私の経験)。チャンスの平等はあるがほとんど全てが基本的に個人の決定に委ねられ、最終的には個人の責任に帰するのが米国社会の様だ。学問の発展、創造性の発揮には明らかに米国流が向いていると思う。若い時代のこの経験はその後の私の研究者としての一生に大きな影響を与え、後の国際共同研究を行うに際して大いに役立った。
 

今思い起こすと人生の全ての節目でキーとなる恩師、人と出会いを思い出す事ができる。その人々との出会いが現在の私を作った。広島大学の恩師、先輩からも大きなチャンスと支援を受けてずいぶんと大胆な研究の軌跡を作った。私に取って広島大学は私を育てる良い土壌であったと感じている。


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