今しかできないこと、自分にしかできないこと

中矢 礼美 准教授

基本情報

  • 所属又は配属:大学院国際協力研究科
  • 職名:准教授

研究者になるまでの軌跡

 私の経歴は、研究者として輝かしいものではありませんが、一つのケースとして読んでいただき、何かの参考になれば幸いです。
 私は、高校生の時から、研究職こそ自分の職業だと思っていました。周囲にそのような人がいたわけではありませんでしたが、一つのことを深く考えていくこと、それを文章にすることが大好きでした。幼少期から、負けん気が強く、「男の子」のように振る舞い、強く、賢くなろうと努めていました。小学校時代は伝記が大好きで、それらの本を通して、「人のために生涯をささげる」のが、目指すべき姿であると思うようになりました。地元の愛媛大学教育学部に入学した当時は、アメリカ留学ばかり考えていたのですが、アフリカやアジアからの外国人や留学生との交流を通して、先進国に住む自分の傲慢さ、浅はかさを痛感し、世界の不条理を解消することに貢献したいと強く思うようになりました。特にインドネシアの友人から「日本人が、インドネシアを植民地支配していたって、知ってた?」と言われた時は、大きなショックを受けました。すぐに自宅に帰って高校時代の世界史の教科書を読み返し、さらに図書館でインドネシアについて書かれている書物を読みあさりました。次第に、インドネシアという国家の成立、国民形成、文化の多様性・特殊性、学校教育の社会的機能としての影響力など、興味が広がっていきました。そして、開発途上国と日本の発展における学校教育の機能について社会学的に比較分析したいと思うようになり、大学2年生からは卒業論文にとりかかり始めました。同時に大学院の試験勉強も始めました。学部時代の指導教官である田中毎実先生は、教育哲学研究者でしたが、畑違いのインドネシア教育の研究を応援してくださいました。田中先生は、一を話せば十のことを汲み取って言語化し、指導をしてくださる先生で、指導を受ける度にその賢さと懐の深さに感動していました。そして、「研究者」だけでなく、すばらしい教育者になりたいと思うようになりました。「研究とは、見えないものを人々に分かりやすく、見えるようにすること」「人生も研究もバランス感覚がもっとも重要」「子どもを抱っこできるのは、今だけ。思う存分子どもと接し、幸せを感じなさい」という先生のお言葉は、いつも思い出す言葉です。お見通しなのです。
 また、家族も力強い応援者です。開発途上国の発展に貢献したいと話したとき、母には「あなたが井戸を掘りに行っても、せいぜい数はしれている。そのような志を持つ人間を育てるほうが効率的。それがあなたにしかできないこと」だと教えられました。大学院に行くことを両親にお願いしたときは、アルバイトで諸費用も稼いでいましたし、猛勉強の様子も国際交流活動も見ていたので、さほど驚かれることも反対されることもありませんでした。しかし、一つだけ条件がありました。それは「結婚すること」でした。両親も、仕事と家庭の両立とバランスを強調していました。
 インドネシア研究を教育分野で行うために、広島大学の比較教育学研究室に入ってからは、アルバイトと勉強に明け暮れました。親に迷惑を掛けないようにするため、一日も早く博士号をとる努力をしました。博士課程後期では、文部科学省の奨学金を受けて1年間留学という名目で現地調査に入り、帰国してからは学術振興会の特別研究員として研究費を受けることができるようになり、1年間は博士論文の執筆に集中することができました。大学院時代は、本当にトントン拍子で事は運びました。もちろん、家族、 先生、インドネシア留学中に知り合った人たち、友人(現在の夫)による支援は膨大なものでした。指導学生でもないのに毎週インドネシア語の翻訳指導をしてくださった文化人類学研究者の小池誠先生、研究者の奥ゆかしい姿を見せてくださった故西村重夫先生、とにかく叱咤激励を続けてくださった指導教官、貧乏学生をいつも居候させてくださったインドネシアの人々、論文をいつも丁寧に読んでコメントをくれた友人たち。すべての人のおかげで、博士号取得にまでこぎつけました。
 しかし、それと就職は別です。やっと広島大学の留学生センターに就職させていただけることになりました。しかしそれが決まったのは、長女の出産時。出産後 2ヶ月で初就職という状況に苦しみました。また、就職してからは留学生支援活動が中心となり、 研究時間は全く取れない状況が続いて、自分は「研究者」「教育者」なのだろうか、と首をかしげることが多くなりました。しかし、その状況も教育学研究科で大学院生の指導を受け持つようになってからは、多忙を極めながらも研究者・教育者として幸せな状況になりました。ただ、学生時代のような研究はもうできません。以前の研究は、ジャングルの中、カヌーを使って奥地の学校に入り、ベッドや布団もトイレもないような女子寮で生活しながら調査を行うというような、探検家のようなことをしていました。しかし、就職してからは十分な調査時間は取れなくなり、子どもを出産してからは命が惜しく、長期間子どもと離れることがさびしくてできなくなりました。今は、できる範囲の研究しか着手することができません。しかし、これも別の研究手法や研究テーマを考えるいい機会になったと思っています。
 最近、目から鱗・・の言葉は、「先生は、自分のために生きるべきだ」という学生からの進言です。インドネシアのために、日本の子どもたちのために、お世話になった指導教官のために、目の前にいる助けを求める留学生たちのために、自分の子どもが幸せでいるために、「私は、これをしてあげなければならない」と悲痛な表情で奔走していたのではないかと反省しました。そして、極力「この仕事は、今、あるいは将来の自分のためにも、やりたいことなのか?」を自問して仕事に取組むようにしています。そうすると、自己犠牲感がなくなり、楽しい気持ちで、前向きに、仕事も子育てもできるようになってきました。同じ事をするにしても、心の持ちようなんだなあと思います。
 10年前は、1年近く病気で倒れてしまい、家族にも同僚にも学生にも大変な迷惑をかけてしまいました。それを精神的にも環境的にも研究者として再生できるように支えてくださったのは、所属を超えた学内の女性研究者のネットワークでした。横のつながりの大切さを改めて痛感しました。両親は愛媛や鹿児島と遠く、夫も県外で働いていて, 子ども2人を育てるというのは精神的にも肉体的にも大変です。でも、いつも励ましてくれる女性研究者の先輩や推進室の方々が応援してくださっていると感じて、大きな安心感があります。

学生に対するメッセージ

 このテキストを読まれている女子学生のみなさんも、これから研究者を目指す中で困難な状況があるかもしれませんが、今しかできないこと、自分しかできないこと(やりたいこと)は何かを考え、信念を持って、がんばっていってもらいたいと思います。

(2018年8月掲載)
*所属・職名等は掲載時点のものです。


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