第27回青井議輝准教授

第27回青井准教授「学問には王道しかない」
青井 議輝 准教授
青井 議輝 准教授

(2017年10月12日掲載)

“「学問に王道なしの王道はロイヤルロードの意味だ。そうじゃない、えっと覇道というべきかな。僕は王道という言葉が好きだから、悪い意味には絶対に使わない。いいか覚えておくがいい。学問には王道しかない。」(中略)この王道が意味するところは、歩くのが易しい近道ではなく、勇者が歩くべき清く正しい本道のことだ。”*

“科学というものは、もの凄く謙虚なものだ、と僕は思う。(中略)科学の前で、研究者は平等なのだ。科学というものは、そういう意味で民主主義と似ていると思う。(中略)喜嶋先生は、もちろん一流の科学者だ。でも、ニュースやテレビに登場するような有名人ではない。普通の人は、先生を見ても、そんな凄い人だとは絶対にわからない。これも、科学というものが謙虚である証拠だと僕は思う。”*

とても不思議なことに、高く登るほど、他の峰が見えるようになるのだ。これは、高い位置に立った人にしかわからないことだろう。ああ、あの人は、あの山を登っているのか、その向こうにも山があるのだな、というように、広く見通しが利くようになる。この見通しこそが、人間にとって重要なことではないだろうか。他人を認め、お互いに尊重し合う、そういった気持ちがきっと芽生える。”*

 冒頭から引用した文章で大変恐縮だが、これらは『喜嶋先生の静かな世界』という小説の一節である。ご存知の方も少なくないと思うが、この本は理系の大学院生が卒論生として研究室に配属されてからの日常を描いた作者の自伝的な小説であり、作中では学問を追求することの純粋さ、喜びそして厳しさが明るい文章で語られている。また、研究(特に自然科学)に没頭したことがあるからこそ共感できる感情の機微がちりばめられており、言語化すると硬くなりがちな「研究」や「科学」の本質が軽やかに美しく表現されていることが嬉しくて、私は読み返すたびに目頭が熱くなる。しかし、もしかしたらごく一般の人には理解できないことも少なくない・・と思うとちょっと残念な気持ちにもなる。

 最近私は、共同研究者(教育学の専門)の主導のもとで日本と欧米の高校の生物学の教科書を「科学の本質に関する記述」という観点で比較分析に関する研究に携わった(分析のプラットフォームは共同研究者が構築したため私は分析とデータのまとめに係るディスカッション程度の貢献だが)。ここでは、「科学の本質(nature of science)」の学問的な定義や分析方法の詳細は省略するが、分析結果の結論から述べると、日本の教科書は欧米のそれと比較すると、科学の本質のうち、サイエンスのダイナミズムのようなものがほとんど記述されていないことが判明した(未発表)。つまり、1)科学は変化しながら発展していること、2)それぞれの時代における社会との関わり、そして3)創造性や創造的活動の重要性に関する記述が極めて少なかった(項目によっては皆無であった)。つまり、このことは日本の生徒が理科教育を通じて科学に対して受ける印象が「科学はリアリティーと魅力に欠けるもの」となってしまうことを示唆していた。日本人の科学リテラシーが低いことは社会的な問題であることは周知のとおりであるが、特に社会において指導的な立場にある人々(政治家、官僚、会社経営者など)の科学リテラシーが低い場合、その問題は今後より深刻になる。そして、それは中等教育での理科教育にも起因しているのではないかと考えている。どうしたら、科学の魅力と重要性がその深遠さや誠実さとともに多くの人に伝わるのだろうか。

 一方で、アメリカの研究室にて、お茶のみ部屋のテーブルの上に無造作に置かれてる服部勉先生(東北大学名誉教授)の数報の論文(1970-80年代)を目にしたときには、ささやかに心が震えた。世界のどこかで数十年前の論文が読み込まれ、そして最先端の研究論文に引用されている。服部先生の研究はfancyではないかもしれない。しかし、ゲノム情報がいとも簡単に解読され、遺伝子自体も比較的容易に改変できてしまう現在の微生物学の視点からみても、その着眼点のオリジナリティーと本質を見極める洞察力には感服される。それでも、服部先生自身は生化学的な手法が主流となる時代(1950年代?)において、土壌中の微生物を地道に観察することから始めることに自分自身不安を覚えていたとおっしゃっていた(環境微生物学系学会合同大会2017)。服部先生は今年で85歳になられるにも関わらず、学会に毎年参加され、ポスター会場で発表者(学生)と、気さくに、熱心に議論されている。私の研究についても「あれ(学生のポスター発表)はとっても面白いですね。私もね、似たようなことを30年前にやったんですよ・・」と言われてしまう。いつか・・本当の意味で服部先生を驚かせたいと思っている。

冒頭に戻る。「学問には王道しかない」。

 自分の研究は王道と言えるのだろうか・・エキセントリック(小説を読んでいただければこの表現を理解していただけます)になってはいないだろうか・・。自問自答しながら、不安を打ち消すためにも少しでも高く登ろうと、とにかく足を前に進ませている。そう、冒頭で紹介した小説でも、こう書かれている。

“光り輝くゴールなんてもちろんない。周囲はどの方向も真っ暗闇で、自分が辿ってきた道以外になにも見えない。たとえ飛躍的に進むことができて、なにかの手応えを感じても、そこには「これが正しい」という証明書は用意されていない。それが正しいことは、自分で確かめ、自分に対して説得する以外にないのだ。”*

* 喜嶋先生の静かな世界、森博嗣、講談社、2010年


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