第38回星野保客員教授

バイオのつぶやき第38回星野保客員教授
星野保客員教授
星野 保 客員教授

国立研究開発法人産業技術総合研究所

(2018年10月)

 私は四半世紀に渡り,雪腐(ゆきぐされ)病菌(びょうきん)と呼ばれる積雪下で小麦などを枯らす植物病原菌の性質を解明し,これを鉱工業に役立てるとうそぶいている(科学リテラシーの高い方なら,ここに含まれる謙遜を即座に見破るはずだ)。西条に転勤した際、この研究をどうするか思案し、閃いた。日本を代表するUMA(未確認動物)、ヒバゴンのホーム・広島県北部は、天と法の定めによる国内豪雪地域の西端(にしのはし)で南限だ。広島県で現在、雪腐病菌はガン無視されているが、県内での雪腐病菌の記録は昭和十年代からある。栽培の歴史はもっと古いだろと思い、調査に協力頂いた農家の方に伺ったところ、「そじゃのう。郷土資料でもみんさったら」との助言を得たことで、話は思わぬ方向に転がる。

 広島県にほぼ相当する安芸(あき)(ビン)(ゴ!)(寒…(>_<))山間部の記録を調べてみると、1697年、大雪で田の麦が腐ったとある(麦は稲の裏作として栽培されていた)。300年以上も前に雪腐病は、当時の人々の耳目に触れていたのだ!国内における雪腐病菌の最古の記録は1786年、現在の富山県だと、明治・大正期に活躍した植物病理学者、堀正太郎博士は1934年に発表し、私も私の師匠もこれを引用していた。もっと記録を遡れる。この(私にとって空前絶後、超絶怒涛の大)発見以来、古文書にひそむ雪腐病を捜している。

 真剣に記録を読みだすと、実に興味深い。雪腐病が発生するには、2ヶ月の積雪期間を必要とする。1732年の北広島町の記録には、「麦は50日位雪の下にあったものはあまり腐らなかったが、50日を過ぎたものは大部分腐った」とそのものズバリの記述に見つけて、放心した。この村役人の方は、色々手を講じたが駄目だったとさらに綴っており、色々ってなによ?と恐山経由で尋ねてみたい。1802年、浜田藩では雪の下で枯れない麦を探して、(恐らく飛び地のあった)信州から取り寄せ試作したり、灌漑によって被害を軽減する試みが行われていた。当時の人々が雪の下で麦が枯れる現象を菌類による病害と認識していたか不明だが、品種や栽培法により被害が異なることを理解していた。

 1830年代の天保の飢饉の被害は大きく、広島北部では、4人に1人が亡くなった。戸河内町史の編纂に関わった今田三哲氏は、一家の大黒柱が危機の中、妻子のために奮闘し、力尽きる凄惨な状況を記している。古文書の記録から、当時の人々の暮らしを生き生きと再現するさまに文系の力を感じる。私たちは旧態依然した出来事に対して、つい江戸時代かよ!と愚痴りたくなる。でも当時の人々が知恵と経験を絞りに絞って生きている姿をディスる気はしない。

 リレー式の講義で初めて会う学生たちに、「科学者たるもの常に疑い続けるものだ。しかし、私の存在まで疑われたら講義にならないので…」私は、これまでこのフレーズを講義のつかみにしていた。宇宙の全てに疑問を持ち、証明することは私にはできない。だが自分の専門分野では、常識や既存の報告の裏を取り、可能な限り掘り下げることで新たな知見や解釈、再発見ができることを知った。自分の庭は隅々まで知りたいものだ。


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