第39回藤江誠准教授

バイオのつぶやき第39回藤江誠准教授「帰納から演繹へ」
藤江 誠 准教授

細胞機能工学研究室

(2018年10月)

 大学受験について考える人(高校生、高校の先生、塾の先生etc)と話すと、(大学受験という文脈において)「生物は暗記科目」なので、という言葉がよく出てくる。場面によって、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも使われるが、どちらかというネガティブな(というより消極的な)意味で使われる場面が多いように思う。実際にそうなのか?と考えると、生物学と対極にあるように思われがちな物理学や数学においても、大学入試を突破するには相当量の記憶・暗記が必要なのが現状だ。数学などは公理や定義だけ理解していれば、その延長で入試問題は解答できるはずだが、実際には膨大な公式や方程式の解法等を記憶しておかないと、決まった時間内で正答に達するのは困難だ。二次方程式の解の公式や、三平方の定理やexの微分を受験会場で導きながら解答する学生はいるだろうか? 受験産業も、公理や定義から論理的な思考によって正答を導く能力を向上させるよりは、過去に出題された問題をパターン化して記憶させる事が収益につながる事を理解している。塾や予備校が想定しない問題を毎年出題して、論理的な思考力を考査している大学・学部は日本全体でも僅少であろう。結局は、数学・物理も大学入試の多くの場面では暗記科目として取り組むことが一般的なソリューションだ。

 それでは、なぜ生物学はことさら暗記科目として強調されるのだろうか? 一つは、数学・物理で暗記することの多くは、定義・公理、あるいは少数の基本的な方程式から論理的に誘導できるのに対して、大学入試の生物学で問われる事柄には、知らないとどうしようもない(単体として独立している)用語や数字が多く含まれるからだ。また一つは、大学入試の場面で、数学・物理では暗記+論理性(演繹的思考)を要求される問題が多いが、生物学では暗記さえしていれば解答できる出題も多いのも理由であろう。高校の生物学で学習する事項が、相互に論理的に紐付けされていれば良いのだが、高校の生物学の教科書を見ると、羅列的な(博物学的な)性格が強いように思う。生物学とは暗記するものである、という思い込みが強いのか、大学の講義の期末試験で論理的思考力が必要な出題をすると受講生にはすこぶる評判が悪い。生物学に限った話ではないが、理屈付けて思考する訓練は必要だ。

 さて、受験勉強を離れて研究の場面においてはどうであろうか? 古典的な研究では、ダーウィンによる進化論は、博物学的研究から生命の本質に迫ったものである。メンデルによる遺伝の法則の発見も博物学的な事象の収集(帰納的方法論)がある一定量を超えた際に演繹的な考察への転換がなされ「遺伝子」という概念に至っている。iPS細胞の作製は演繹的な思考が出発点にある美しい研究であるが、人の遺伝子配列を眺めているだけで山中ファクターというアイディアを思いつくわけでもなく、先人からの知見が積み重なった成果だ。ある分野で博物学的な知見が蓄積され(帰納的研究)その蓄積量が閾値を超えた時に、博物学的な知見を統合する発展(演繹的研究)がなされ、生命現象を論理的に説明する根本原理が確立されるのが生命科学の本質なのかもしれない。

 質量分析技術の飛躍的な進歩により、omics研究では莫大なデータが蓄積され続けているし、顕微鏡技術の進歩により細胞内の1分子動態のデータを蓄積することも可能になってきた。ゲノム編集技術の発展も目覚ましい。そのうちに(私が死ぬまでには?)細胞の構造・機能が発現・維持される仕組みを統合的に説明する理論が出来るのだろうと期待している。莫大な蓄積データから根本原理を見出すには、コンピュータでビッグデータを解析する技術が必須である。生命科学のコースでもコンピュータサイエンスを本格的に取り入れる時期が来ているように思う。

 

  


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