※当時の運動部にとって、一般的な資金集めの手段はダンスパーティーの開催であった。「ところが、ダンスパーティーも週に二度、三度と開かれるに及んでは、乱立気味で収益が見込めなくなった。(中略)全運動部が一致団結して興行をやろうということになった」「こうして公会堂での音楽会(ヴィレッジストンパーズ)は三九年六月一七日の第一回で七〇万円、四〇年一〇月一五日の第二回カーメンキャバレロピアノリサイタルが一四〇万円の収益を上げ、日本に於る最高の観客動員数を記録したのであった(某週刊誌は「広大には興行師がいる」と書いたそうである)(広島大学体育会史 1980)
-興行師とまで評された体育会の資金集め-
1949年、8つの高等教育機関を統合して発足した新制広島大学。当時の学生、特に運動部の学生にとって悩みの種は運動施設の貧困さであった。その現状を打開すべく、土地探しに立ち上がった運動部幹部だが、最初に目を付けたのは、なんと広島市沖合に浮かぶ似島。ただし、その地は広島市の反対にあって幻に終わる。再び奔走した結果、賀茂郡西条町(現東広島市)に好適地(現広島大学西条総合運動場)を見つける。
(前編より)
長谷川直哉氏(工学部1967年卒、自動車部、広島大学体育会第三代幹事長):大学村の候補地が見つかったので、運動部を束ねて実現に当たらなきゃいけない、窮状を訴えるしかありません。「こうなったら文部大臣に状況を聞いてもらわないといけない」となっていったわけです。
そこで、文部大臣を6度、衆議院議長や厚生大臣、自民党総務会長を歴任した大物政治家、広島出身の灘尾弘吉さんをターゲットとして作戦を練りました。
※灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年- 1994年。昭和時代の内務・厚生官僚、大分県知事、1952年より衆議院議員。衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(36代)、自由民主党総務会長(18代)等を歴任した)
灘尾さんに会うための手はずは職員の方が整えてくれました。ただし、最後の「突撃だ」というところは、学生部長には言わなかったのかもしれません。実は後からこっぴどく怒られたんですけどね。
メンバーは、私と阿部紘委員長(軟式庭球部/工学部)、山戸日出雄事業幹事(政経学部/空手道部)の3人。学生服を着て行きました。4年生だった1967年夏のことです。
-当時、運動部の学生は学生服を着ていたのですか?
長谷川:はい。以前、体育会幹事長として何かの会合に背広を着て行ったことがあるのですが、スポーツの関係の先生に「なんというざまだ。学生服を着てこい」とえらい怒られたんですよ。運動部の学生たるもの学生服を着るもんだ、と。
広島-東京を結んでいた急行は蒸気機関車
-当時は広島からどうやって行きましたか。
長谷川:呉線経由の「急行安芸」、途中まで蒸気機関車です。寝台車ではないので、腰は痛いやら。
※急行安芸は広島発1415発、東京着0700。1970年の全線電化まで広島三原間の呉線では蒸気機関車が使われていた。
灘尾氏に、他校との比較や、新生大学としてたこ足でまとまりがないから、全学まとまって活動を進めていくにあたっては、環境を整える必要があることを訴え、「ぜひご尽力賜りたい」と伝えました。説明のために1時間くらいもらえたと記憶しています。

「ツルの一声」で大学はひと騒動
-灘尾先生はどんなを顔していましたか?
長谷川:「よくまあ、広島から来たのう」と(笑)。で、「まあ、お前たちの言いたいことはわかった。急にはできないだろうけど、頑張れ」という感じでした。
そこから、すぐに文部省から大学にオーダーが出て、いずれにしても広大がひっくり返るような騒ぎになったわけです。東京に3~4日いて広島に帰った次の日、「体育会幹事長が国会へ行ったらしいぞ」という話が広まっちゃって。それで、学生部長に呼び出されて「なんだ、お前どこに行っとったんだ!」と怒られましたね。
-現場を頭越しにするとは何事かってことですか。その後はどうなったのですか。
長谷川:大学側の作業がどんどん進み始めました。ただ、グラウンドの話と大学移転の話がどこでどう結びついたか、実際に何か結びついたのか、それぞれは独立して動いていたのかは、必ずしも明確ではありませんが、その頃から具体的に大学キャンパス統合移転の話がいろんな形で動いているように見えたのは確かです。

(『フェニックス』創刊号)
※『広島大学の50年』(2007年)によると、統合移転について具体的な動きが展開されるのは1970年からで、その時点では候補地は西条を含む4か所に絞られていたにすぎない。そして1973年に文部省で飯島宗一学長が西条町に決定した経緯を報告している。その理由として地形や用地取得費、交通の利便性など8点を挙げているが、その一つとして「隣接して、既設の広島大学西条総合運動場および広島大学西条共同研修センターがある」が紹介されている。
アメリカの有名ミュージシャン公演で資金かせぎ
-当時の体育会はどんな活動をしていたのですか。
長谷川:体育会自体は、無事に全学組織として発足しています。全学組織として、スキーやキャンプ、ダンスパーティなどいろいろな活動を広範囲にやりました。
僕たちの代が初めてやったのは、ヴィレッジ・ストンパーズ(1963年のヒット曲「ワシントン広場の夜はふけて(Washington Square)」で知られるアメリカのディキシーランド・ジャズのバンド)、カーメン・キャバレロ(クラシックからポピュラー・ミュージックまで幅広くこなした。ピアノ・タッチは豪快で、「キャバレロ・タッチ」と称される)、それからビリーヴォーン(ポピュラー音楽/イージー・リスニング界で最高峰のヒット・メーカー。愛のメロディー (Melody of Love)など)、グレン・ミラーオーケストラ(カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントン等と共にスウィングジャズ、ビッグ・バンド・ジャズを代表するバンドリーダー。「ムーンライト・セレナーデ」「茶色の小瓶」「イン・ザ・ムード」「チャタヌーガ・チュー・チュー」など)の興行ですね。

(『フェニックス』創刊号)

(『フェニックス』第2号)
-あのグレン・ミラーを呼んだんですか!
長谷川:キョードー東京が扱っているジャパンツアーの中の一つの興行権を買ったわけです。グレン・ミラーオーケストラの一団が広島空港に到着したのを、自動車部のバスで迎えに行ったんですよ。
-儲かりましたか?
長谷川:日本一の興行収入となりました。儲かりましたよ。当時のお金で100万円以上。それが体育会の活動資金になりました。学生が興行を成功させたということで新聞にも出たんですよ。

-他の大学の学生もそういう興行をやっていたんですか?
長谷川:やっていませんね。広大体育会が唯一です。発想は、とにかく各部の活動資金集めで、各部がチケットを売った実績に応じて資金を分配するというわけです。
”寄せ集め”からの脱却が原動力
-当時の学生がそこまでのパワーを持ち得たというのは、今の学生にも知っておいてもらいたいですよね。
長谷川:学生たちのエネルギーはあり余ってたよね。
要するに何かをやりたいんだけど、何をすればいいのかわからなくて、エネルギーをどう発散すればいいのかよくわからない。走りたくてウズウズしているやつがいっぱいいて、運動場を走り回っているけど、あいつらのエネルギーをなんとか使う方法はないのかということで、学部対抗、運動部対抗の駅伝を宮島でやってみたり。それを実行する力があったんだよね。「とにかくやるぞ」という、行動力のある人間が揃っていたのだろうと思います。
-当時はキャンパスもタコ足でしたが、もともとのルーツの学校もたくさんあったわけなので、心理的な寄せ集め感もまだ残っていましたか?
長谷川:残っていましたね。いろんな学部があって、体育会がその間の人を介して繋がっている感じです。我々が体育会の頃は、学長の家にお邪魔して、喧々諤々やっていました。
「今年7月初旬、私の学長就任が内定した日のことである。(中略)帰宅すると、間もなく電話があって、これから体育会の代表諸君が私の家に来て、話をしたいというのである。いったい何の話であろうか。私の書斎に集まった学生諸君は6名で、広島大学体育会を代表する委員長、幹事長および幹事の全員であった。これらの諸君は、おりから降り出した雨の中を、しかも暗くわかりにくいのにかかわらず、私の家をたずねてこられたのである。私は内心、これらの諸君は、おそらく私に対する切実は希望や要求をもって集まられたのだろうと予測していた。しかし、このような私の予測は全くはずれていた。学生諸君は私に対して、まず全学的な体育会の活動状況を説明し、そして、体育会が、体育活動を通して、広島大学の清新健全な学風の樹立に、いかに努力しているかを述べられた。若い彼等の話は楽しく、夜がふけるのも忘れるほどであったが、私に対する希望や要求の言葉は、彼等の口から、ついに一言もでなかった。体育会を代表する諸君は、大きな学生組織によって、広島大学の健全な学風の樹立に邁進していることを、私に知らせたかったのである。私は感激に心をふるわせながら、学生諸君の若さに満ちた力強い意見に聞き入ったのである。(新任にあたって 広島大学体育会会長 学長 川村智治郎/フェニックス 創刊号 昭和41年11月30日発行 より抜粋)」
学長の使命のこの中に、体育会のような活動も支えと入っていたのかもしれません。昔は学長と学生の距離が近かったのですよ。そして、人のつながりが強固で、その人と人のつながりがずっと続いていてね。(了)
本稿シリーズは広島大学OBOGの回顧をまとめたものであり、広島大学の公式記録・見解ではないことをお断りしておきます。
<お問い合わせ先>
広島大学東京オフィス
TEL:03-6206-7390
E-Mail:tokyo(AT)office.hiroshima-u.ac.jp ※(AT)は半角@に変換して送信してください。