広島大学の統合移転は、当初予定の1986年から9年遅れて1995年に学校教育学部、法学部、経済学部の移転で完了した(法学部、経済学部の二部は東千田キャンパスに残ることになった)。しんがりを務めることになった学生たちは、何を思い、どう行動したのか。
最後に残された東千田キャンパスで
-鈴木さんが入学したのは何年でしたか。
鈴木:1992年に入学して、1996年に卒業しました。広島市内で入学式が行われ、広大名物のオリエンテーションキャンプ(オリキャン)が全学で実施された最後の学年です。総合科学部が1年生の終わりに東千田キャンパスから西条キャンパスに移転、文学部が2年生の終わりに移転、法学部・経済学部が3年生の3月に移転、と毎年移転を経験しました。

鈴木泰広さん(法学部1996年卒、毎日新聞社学芸部長)
-どんどん寂しくなっていったのですね。どんなことが起きましたか。
鈴木:僕は体育会サッカー部に入っていました。サッカー部員は、教育学部体育専攻の学生が多く、教育学部は90年に移転していたので、上級生の多くは西条で活動していました。それでも1年生の時は、総科で他学部の学生も一般教養の講義を受けていましたから、千田のグラウンドで、大人数で練習ができました。
ところが、2年生の時に千田に残った同級生は4人。東雲キャンパスにあった学校教育学部も含め、先輩・後輩を合わせても平日に一緒に練習できるのは8人になってしまいました。土日に試合がない時は、電車とバスを乗り継いだり、先輩の車に乗せてもらったりして西条に通いました。
-ということは、狭いキャンパスだけど、千田のグラウンドは使い放題じゃないかと。
鈴木:他の部活もあったので、使い放題というわけではなかったと思います。人数が少ないとできる練習メニューも限られるので、工学部跡地にある中区スポーツセンターで筋トレをする日もありました。
学生が減ると、建物も減っていきました。それまで千田に三つあった食堂は大学会館だけになり、総科の裏にあった木造のサークル棟も廃墟みたいになっていました。やがて取り壊され、文学部が移転すると、その木造校舎も取り壊されました。


千田を盛り上げるために
-キャンパスの活気もなくなってしまいましたか。
鈴木:残っている学生でなんとか盛り上げたいという気持ちがありました。僕は入学してすぐに大学祭実行委員会(実委)にも入りました。1年生の6月と11月に千田で開かれた大学祭の運営に携わったのですが、翌年からは西条で開催されることになり、千田からお祭りもなくなってしまいました。

そんな時に、法学部の二部に43歳で社会人入学した山根進さんから面白い話が舞い込みました。山根さんは正門の横にあった、カレーライスのご飯お替わりし放題のマンガ喫茶「びっくの~ず」のマスターです。地元商店街に店を構えていて、学生でもある山根さんに商店街の人たちから「移転で学生が少なくなって困っている。町おこしのイベントをしたい」と相談があり、前年の大学祭で実委の委員長、副委員長を務めた法学部の先輩のところに連絡が来て3人で店に行きました。春のことでした。

(左)びっくの~ず山根進さん (右)鈴木泰広さん
商店街の大人たちは、ある程度のお金はなんとかできるけどアイデアがない。学生はやりたいことがあるけどお金がない。「じゃあ一緒に新しい祭りを作りましょう」といって93年11月に初めて開催したのが千田祭です。
-商店街の人たちには危機感があったのでしょうね。
鈴木:総科がなくなったことで学生の数が一気に減り、危機感が生まれたのだと思います。当時は千田の跡地の利用法が決まっていませんでした。商店街にとっては、2年後に統合移転が完了した後も、法学部と経済学部の二部(現夜間主コース)に居続けてもらい、新たに日常的に人が集まる施設を誘致したいという思いもありました。
先輩や山根さんと祭りの構想を練り、法学部、経済学部、文学部、二部の学生らに声をかけて90人を集め、実行委員会を作りました。全学の実委では2年生が委員長を務めるのが慣例でしたので、千田祭の実委でも2年生だった僕が委員長を務めました。
-どんなお祭りだったんですか。
鈴木:「若者文化を発信し、広島を盛り上げる新しい祭り」を売り文句に、地域に開かれた大学祭にしようと考えました。森戸道路沿いに市民参加のフリーマーケットを150店出し、突き当たりの旧理学部前に設けたステージでは、出場者を学外から募集して当時流行っていたダンスやアンプラグド(アコースティック音楽)のコンテストなどをしました。跡地問題を考える討論会も開き、2日間で1万人が来てくれました。

鈴木泰広千田祭実行委員長あいさつ文(表記はママ)
千田祭へようこそ
「今、千田だからできる大学祭」 そんな祭が千田祭。
西条移転の真直中、市内の広大生がみせてやる。
広島のカルチャーシーンをリード 次代をになう若者達のパワーを引き出す。
直面している問題を考える。今後の千田・広島はどうなるか。
商店街のおやじも一緒にやっている。そんな学祭どこにある。
学内・外なんて関係なし。参加するのは誰だって構わない。殻に閉じこもるのはもうやめよう。
”広島”で盛り上げる。「学生の内輪行事」のレッテルはいらない。
新たなる非日常・千田祭。こんな想いで私は創る。
~秋風の中、ここで何かを感じてください~
商店街との共催は前例がなく、大学からは「あくまでも学生の祭りとしてでなければ施設の使用許可を出しかねる」と言われました。一番問題になったのがフリーマーケットです。学生のバザーはいいが、学外の人たちが国有地の中で商売をするのを許すのは難しいという話でした。祭りの意義を丁寧に説明し、いろいろ考えて「物を有効活用するリサイクルであって、商売ではない」という論理で乗り越えました。

創り出した祭りをどうやって続け、盛り上げていくかも大きなテーマでした。
移転完了前最後となった94年の第2回千田祭では、西条の学生や広島女子大の学生も一緒に企画チームを作り、プロの服飾デザイナーやスタイリスト、写真家にも協力してもらって、おしゃれな若者や若手アーティストによるファッションショーを開きました。千田が法学部・経済学部の二部だけになり、二部生が実行委員会のメインとなった95年の第3回は、「広島は本当に国際平和文化都市か」をテーマに留学生たちと話し合うパネルディスカッションを法学部の友人と企画し、跡地問題を考える討論会にも関わりました。
その後、千田の広大生やボランティアが中心となって、「千田わっしょい祭」という名前で続けられました。毎月1回、フリーマーケットや屋台が出て、プロの演奏なども楽しめる、2万人が来場する祭りになり、2020年7月12日まで計383回開かれました(注:このイベントは地域おこしの成功例となり、ひろしま街づくりデザイン賞(まちづくり活動部門)、ひろしま千客万来賞(大入り賞)などを受賞している)。
https://sendawasshoi.wixsite.com/website
バブル崩壊後の世代として
-バブル崩壊後の入学ですよね。不景気を実感したことはありましたか。
鈴木:両親が教員で公務員でしたので、バブルの恩恵も、崩壊の影響も受けませんでした。僕は千田小学校のすぐ前にあった古いアパートに下宿していました。6畳の和室と3畳の台所、流しはタイル張りでトイレは共同、銭湯通いで家賃は21,000円。途中で17,000円に下がりました。それでも当時、周りからも不景気の影響で仕送りが減ったというような話を聞いたことはありません。
当時はクラブが流行っていて、並木通りにあった「G」には結構出入りしていました。岩国から米兵が来ているようなお店でしたが、学生もたくさん来ていて、週末の夜は人があふれていました。夕方に一度寝てから、夜8時か9時ぐらいに繰り出して、店に夜通しいたこともありました。
その一方で、中央通り沿いの広島帝劇会館にあった「キング&クイーン」というディスコが1995年5月に閉店しています。バブルの象徴だったディスコが姿を消したというのは、時代の変化の表れと言えるかもしれません。
-学生生活ではほとんどバブルの影響は感じなかったということですね。
鈴木:そうですね。むしろ広島市内は94年に基町クレドや広島パルコができ、アストラムラインが開業し、アジア競技大会が開かれるなど、街にものすごく活気があった印象です。始まったばかりだったJリーグでサンフレッチェ広島が優勝しましたし。
そう言えば、キャンパスの移転で部屋の空きがたくさん出たので、元々は江波の風呂なしアパートに住んでいた友人が、大学近くのマンションに引っ越したという例もあります。
-移転のために条件のいい物件が出てきて、住環境がよくなったという皮肉な面もあったんですね。
その後、広島大学東千田キャンパス跡地利用は迷走をすることになる。いったんは東千田公園として整備され、がんセンター、広島県庁移転先、サッカー専用スタジアムなどの候補地となるが、被爆建物である旧理学部1号館の保存問題などから実現せず、跡地の一体開発を担うことになったデベロッパーは経営破綻して白紙に戻る。その後、敷地の一部が別のデベロッパーにより再開発され、53階建てのタワーマンション(hitoto広島 The Tower)などが姿を現す。また、2023年には東広島から法学部および大学院が再移転。2025年2月には広島地域大学長有志懇談会から「ひろしまの『知の拠点』再生プロジェクト」が提案されるが、整備はまだ道半ばである。
本稿シリーズは広島大学OBOGの回顧をまとめたものであり、広島大学の公式記録・見解ではないことをお断りしておきます。
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