ひと手間かけることで人もビジネスも大きく伸びる

訪問日

2019年11月26日

センパイ

内藤 亨(ナイトウ リョウ)氏
1979年政経学部卒業

パラカ株式会社
http://www.paraca.co.jp/

パラカ株式会社 代表取締役 執行役員会長
内藤 亨氏
(政経学部1979年卒業)

訪問記

―執務スペースにずらりと並んだ群書類従が圧巻ですね。

内藤:歴史好きの中でも一次資料(原本)まで見ないと納得がいかない性格なんです。毛利輝元が関ヶ原で負けて萩に移りますよね。ほとんどの家臣がついていったのですが、各一族の中でそれぞれ一家だけ地元安芸に残れと言われて残ったのが、毛利の家臣だった内藤一族のなかでうちなんです。地元では「居残り組」と言われています。

歴史好きが高じて、47都道府県の偉人の掛け軸を全県集めている最中です。広島だと毛利元就、頼山陽、大阪だと豊臣秀吉、千利休、奈良だと柳生宗矩、高知は山内容堂、鹿児島は東郷平八郎といった具合ですね。珍しいところでは、後醍醐天皇のものもあります。まだ手に入っていない県のものは、古美術商に頼んでいます。たまにね、ヤフオクでも買うんですよ(笑)。

こうした史料に触れることは社員の教育にもなるし、事業を全国展開しているので、その地元の掛け軸を持っていると、営業にも効果があるんです。

―ところで、社会人のスタートは、野村證券でいらっしゃいますね。当時の野村證券は、「ヘトヘト証券」と呼ばれるほど一番ハードな時期だったと思います。考えがあって入社されたのですか。

内藤:全然ありません(笑)。中国電力を受けていて、最終面接まで進んでいたので、ほかは全く受けていなかったのですが、すべっちゃいまして。10月頃でしたので、もう行くところがないな、と思っていました。そんな時、大学の掲示板に野村證券の二次募集のチラシが貼られて、リクルートブックを見てみると、業界1位と書いてあったので、行ってみるか、と。

政経学部経済の出身ですが、証券会社のことは全然知りませんでした。株でもやるのかな、ぐらいの知識でした。

―経歴を拝見して、やんちゃなタイプかと想像していたので、意外です。

内藤:野心みたいなものは全くないんですよ、いきあたりばったりです(笑)。野村證券でも10年後に転職したゴールドマン・サックス証券でも、入ったら入ったで集中する、という感じで、目の前に何かあると、そこには集中するんですけどね。

持って生まれた性格なんでしょうね。両親にも、何か一つ分からないことがあると、「なんで、なんで、なんで、なんで」としつこく聞くので、よく「うるせえ」と言われましたよ(笑)。

―大学時代はどんな学生でしたか。

内藤:体育会のテニス部に入っていました。中高は軟式、大学で硬式に転向して、朝から晩まで練習していました。転向組ですが、県大会ではダブルスで3位になりました。負けた相手はインカレ選手で、マッチポイントまで追い詰めたんですよ。

―野村證券に入社されて、驚いたことなどあったのでしょうか。

内藤:はじめての職場ですから、これが普通かなと思っていました。最初は岡山支店に配属されて5年間、その後、本社の事業法人部という、上場企業を担当する部署に配属されました。そこでは増資や転換社債の発行など、資金調達のお手伝いが業務内容でしたが、資金運用の専門部隊が必要だということになり、上場企業担当者の中から二人だけが選ばれ、2,000億円の資金を運用することになりました。28歳のときです。

二人から開始して徐々に人数が増え、後に部に昇格して資金運用部ができました。ですから、私が運用担当第一号です。結構がんばって運用の勉強をしましたよ。実は今でも、機関投資家から運用の相談を受けることがあるんです。

―野村證券からゴールドマン・サックス証券に転職されたのはいつですか。

内藤:1988年12月です。同期が一人、別の外資系証券に転職して、「外資系がいいから、お前もこいよ」と誘われたので、「じゃあ、いくか」と。

―野村證券に不満があったわけではないのですね。

内藤:ちょっとありましたね。運用の仕事が面白くなっていたのですが、調達に戻るように言われました。調達サイドは、料亭で、役員だらけの中で接待をするんです。お土産の手配からおクルマの手配、芸者は入れるか入れないか等々。なんで俺がこんなことしなきゃいけないんだと(笑)。

―ゴールドマン・サックス証券では、どんなお仕事をされたのでしょうか。

内藤:野村證券の岡山支店で個人や中堅企業を担当、本社で上場企業担当でしたので、ゴールドマン・サックス証券では金融機関を担当したいと思って生損保、信託、投資信託の株の運用部門を担当しました。

―ちょうどその頃に、バブルが崩壊しますね。

内藤:バブルが崩壊しても、日本の機関投資家は構造的に株は買わざるを得ないところがありました。日経平均が下がっても、何か上がる株があるだろうと考えるんです。

―手元に運用するべきお金があるから、ということですね。

内藤:日本の機関投資家をニューヨークに2週間ぐらいご招待し、ゴールドマン・サックス証券のアメリカのパートナー(役員)や向こうの機関投資家に会わせるということを4日ぐらいでやって、あとの10日は遊んでいました(笑)お上りさんみたいに、ナイアガラの滝を見に行ったりして。

2週間もニューヨークに行くんだから、当然、機関投資家に向けてレポートを出さないといけないでしょ。そのレポートも、行く前に書いておくんです(笑)。

―出発前に仕事は終わっていると(笑)。そんな外資系証券会社から、今度はいきなり地べたの仕事を始められるわけですよね。

内藤:退職したのは1995年3月末ですが、1994年10月から二足の草鞋生活を始めていました。土日と夜の活動で、すでに10か所ぐらいのコインパーキングを運営していました。

―おいくつぐらいの頃ですか。

内藤:38歳かな。野村證券時代に担当していた企業の中に、ニュービジネスが好きな役員がいて、「ちょっと面白いビジネスを見つけたから、お昼時間に一緒に見に行こう」と誘われて行った中の一つが、コインパーキングでした。パパっと試算してみると、「えらい儲かるな」ということがわかり、「これは、いいな」と。

―自分でやる方法と、投資家として投資する方法があったと思いますが、なぜご自分でされたのですか。

内藤:当時は、コインパーキングの上場企業がありませんでしたので、投資のしようがありませんでした。都内にもほとんどコインパーキングはありませんでした。また、株式市場の動向は、当面よくないことが予測されました。

―ずっと歩んでこられた証券業界から、全く違う分野で起業の道を選ばれたのは、大きな決断だったはずです。

内藤:実は、3~4年前に実家の蔵のリノベーションをしました。本が増えると、どんどん蔵に送っていたんですが、その蔵の整理をしているときに、司馬遼太郎が戦国大名「北条早雲」の生涯を描いた『箱根の坂』が出てきました。北条早雲が、40歳の時に一介の浪人からスタートして大名になった、という話です。当時私は40歳手前でしたので、年齢的に遅いと思いつつ、「まあ、北条早雲も40歳だったからなあ」という気持ちがあったことを、それを見て思い出しました。

―当然、創業の苦労があったはずです。

内藤:創業時、機械を購入するための資金調達には苦労しました。創業したてで、銀行借り入れやリースもあまりできませんでしたので、ベンチャーキャピタルを集めて出資をお願いしたりなどで、数億円は集めました。

野村時代に鍛えられたおかげで、知らない人に電話するのは全く苦痛ではなかったので、「日本リース会社名簿」に掲載されている800社に「機械を買うのでリースかけようと思うから、きてくれ」と方端から電話をかけました。でもだいたい「できて数か月の会社でリースなんて組めるわけないだろう」と帰って行ってしまうんです。ところが1社だけ「おもしろそうだからやってみよう」と出資してくれた農協系の会社がありました。1社やると、日本は横並びですのでどんどん次につながりました。最初の1社をどう突破するか、ということなんですよね。

―コインパーキングの業界最大手は、かなり巨大な敵だと思いますが、どうやって戦っていかれるのでしょうか。

内藤:当社は、コインパーキングの会社の中で唯一、土地を保有しています。2003年ごろは、「持たざる経営がよい経営」と言われていて、上場企業から何から、バンバン土地を売っていましたが、その時に、うちは一所懸命土地を買っていました。

ビジネスのモデルが違うので、大手と戦っているという意識は、あまりありません。土地を持っているので、まず赤字になりません。借りていたら、賃借料が上がるとすぐ赤字になるという、このビジネス特有の収益構造があります。当社は赤字リスクなし、解約リスクなし、それからオーナーがよその会社に乗り換えるリスクもない。3つのリスクが全部ないのです。

バランスシートの右側を「負債と資本」、左側を「資産」と一般的に呼びますが、当社にとって右側は「調達」、左側は「運用」なんです。運用利回りがよければ運用資産を大きくするほど利益はどんどん伸びます。お金を調達して、それを物にかえて、運用する、というシンプルなことなんです。銀行や上場企業がバンバン土地を売っているときも、「駐車場の運営をすると10%の利回りがあるのに、なんで手放しているんだ」という感覚で見ていました。

―世の中の空気に騙されない、信念があれば不安にならない、という教えですね。ところで、地方都市にも重点的に展開をしていますね。

内藤:日本の都市は1960年代にビルをたくさん建築しています。東京オリンピックの際にインフラも一度に整備しました。東京は、継続して建築投資をしていて、ずっとリニューアルをしてるから気付かないのですが、そこから60年が経とうとしていますので、更新時期を迎えています。地方都市は、ほとんど手が付けられてこなかったので、いまリニューアルに向けて強烈に動きつつあります。駐車場のビジネスにとっても魅力的なチャンスなのです。

―新たに取り組んでいることがあったら教えていただけますか?

内藤:今は、駐車料金の決済関係の技術革新です。雨の日でも精算機まで行く必要が無く、濡れずに車の中で料金の精算ができる。そんなスマホアプリを開発中です。

商業施設では、今後はすべてのテナントがアプリを導入するようになります。その中に、駐車場もモジュールで組み込んでおけば、買い物をした割引を駐車料金にそのまま適用することもできます。当社では、「お釣りで投資」する会社に出資していますが、駐車場の割引分を「お釣りで投資」することもできるように検討中です。【金融と駐車場】これまでは想像のつかなかった組み合わせです。

―ところで広大生について。今も昔も自己評価が低い傾向があるように感じられます。

内藤:自己評価が低いとずっと努力しますから、その方がいいと思いますよ。わが社の社員をながめてみても、地方国立大学の学生は、自己評価が低く常に努力するので周りの評価が高いんです。受験の時に2科目だけしか勉強していない学生だと、日本の歴史とかまったく知りませんし、面接時にことわざを言っても通じないし…。でも地方国立大学の学生は、5科目きちんと勉強していて、常識的なことをきちんと知っているんですよね。

ビジネスも、地方の方がやりやすいんですよ。東京は、電話をかけてもガチャ切りが多いですけど、地方ではまず話を聞いてくれます。東京は良い面も多いですが新入社員がくじける可能性は高い(笑)。

―仕事の心得があれば、ぜひお聞かせください。

内藤:プラスアルファをやるかどうか、ですね。たとえば、土地を仕入れる担当なら、地主さんに電話がつながらない、自宅に足を運んでも会えなくて帰ってきた、ではダメです。手紙を書いて置いてくるとか、近所で聞き込みをするとか、ひと手間二手間をかける人は、伸びますね。

―ご自分を奮い立たせる言葉や考え方はお持ちですか。

内藤:当社の経営理念として「一極二元思考」というのがあります。物事には必ず陰と陽、表と裏がある。楽しいのは苦しいがあるから楽しい。苦がなくなれば楽もなくなる。河口湖にある当社の研修センターの1棟目は駐車場の満車と空車から「満空荘」と名付けました。空車があるから満車があるんだと。3棟目は「遊憂館」と名付けました。憂いを遊ぶ館、です。つらいから嫌、ではなくて、つらいをどう遊ぼうか、ということです。景気の波動と同じで、上がるから下がる、下がるから上がる。これは日々の暮らしも景気の波動も同じだと信じています。

(左から)松永州央氏(1990年法学部卒業)、内藤亨氏(1979年政経学部卒)、
丹呉祥子氏(パラカ株式会社)、千野信浩氏(1985年総合科学部卒業)、
稲富滋氏(広島大学広報アドバイザー)

<お問い合わせ先>
広島大学東京オフィス
TEL:03-6206-7390
E-Mail:tokyo(AT)office.hiroshima-u.ac.jp ※(AT)は半角@に変換して送信してください。


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