<お問い合わせ先>
広島大学東京オフィス
TEL:03-6206-7390
E-Mail:tokyo(AT)office.hiroshima-u.ac.jp ※(AT)は半角@に変換して送信してください。
訪問日
2025年7月11日
センパイ
國府 俊一郎 (コクブ シュンイチロウ)氏
1998年 経済学部卒業
大東文化大学教授

-ご出身はどちらですか。
國府:宮崎県の都城市出身、1975年生まれです。都城泉ヶ丘高校に進学し、学校の方針として基本的に国立大学の受験を勧めていたので、西の方で経済学部がある大学、というところで広島大学を受験しました。1年生の時だけ東千田キャンパス、2年生からは移転した東広島キャンパスです。
-どんな学生生活でしたか。
國府:1年生の時にはテニスサークルに入っていましたが、2年生の時に東広島市に引っ越しして、経済学部の仲間内でつくったイベントサークルで活動していました。テニスやスキー、そのうちだんだんめんどくさくなって麻雀が一番多かったです(笑)。学業は、一年生の時は単位を落としたり、あまり成績が良くなかったですね。
-専門のゼミはどちらですか。
國府:一番やりたかったのは経済発展でした。一年生の時ゼミの先生から「そんな成績じゃ通らないぞ」と言われたのにも関わらず受けましたが、人気のゼミだったこともあって、入れませんでした。結果、森岡敬史先生の労働経済学のゼミに入ります。労働経済の勉強は地に足がついてる感じがして、とても面白いと思いました。
私が入学したのはバブル崩壊直後で、金融論の先生自身が「数百万円失った」という話をしているような時代でしたので、「そんな金融論は勉強したくない」とも(笑)。
卒論では、日本の労働組合運動をテーマに選びました。
-その後、九州大学の大学院に進学されています。
國府:実はその前に、広島大学の大学院に1年間進学しています。大学院での学びは、より理論的なことが学べるようになり、研究室に入り浸るほど面白かったです。議論することが好きで、それを仕事にできれば面白いなと、大学で働きたいと考えるようになっていました。
修士1年の時、森岡先生から、「大学で教員になりたいのなら、もう少しいろいろなところで経験を積むのがよい」と、九州大学の福留久大先生を紹介してもらい、受験しました。
九大時代の研究テーマは、労働経済学や労使関係で、博士論文は労働運動やニューディール運動に関する内容です。
-九大の生活は、どうでした?
國府:楽しかったのですが、博士課程1年の時に心を病んでしまいます。修士論文を書き終わった後に、学位認定をめぐって揉めるところがあったと聞き、先生とギリギリまで調整などしているうちに調子が悪くなり、1年間ぐらい長い時間の外出が難しい状態になり、心療内科にも通っていました。
-よくその状態から抜け出すことができましたね。
國府:人にはあまり勧められませんが、私の場合はオンラインゲームに支えられました。オンラインゲームをやり始めてから、いろんなことを気にしなくて済むようになり、ひたすらパソコンでゲームをやっていました。当時は博士1年だったので、成果がなくてもなんとかなりましたから、その1年間は何も論文を発表していません。
お昼のバラエティ番組を見ながらパソコンでリネージュというゲームを立ち上げて、それからずっと続け、翌朝6時ぐらいに寝る生活でした。
ぎりぎりの状態だった自分と、現実世界をつなげてくれていた彼女の存在も大きかったです。現在の妻ですが、私が修士2年の時に台湾からの留学生として修士1年に入学していて、修士論文を書いていた頃に大学院のゼミで知り合いました。

-博士号を取られた後は、どのような道を歩まれたのですか。
國府:博士課程には4年間行くことになったのですが、その4年目の時に子どもを授かりました。彼女の方は修士2年を終えて台湾に帰国、私は博士3年目で、遠距離恋愛中のことです。彼女は台湾の半導体の会社で働いていて、連絡手段は手紙と電話だけのやり取りでした。そんな中で、ちょっとだけ会う機会がある。そこで授かったんですね。
娘が生まれたのは博士4年生の10月、博士論文で一番大変な時でした。妻は台湾で出産しましたので、私は台湾に行って子供の顔を見てから日本に戻り、論文に取り組みます。そうやって博士課程を修了するのですが、大学には非常勤講師のポジションしかなく、しかも半年後から。妻が、「それなら台湾で子供の世話をしながら、語学の勉強もさせてあげるだけの余裕はある」と言うので、台湾に移りました。
台中に妻の妹が住む家があり、彼女が日本に留学して家が空いていたので、私の一家がそこに引っ越して、大学で中国語を勉強しながら、子育てをすることになりました。日本語の塾の先生をしながら中国語を勉強していましたが、2か月ほど経ったころ、妻が台湾の大学の面接案件を持ってきました。その中の一つ、桃園市の開南大学に正規雇用で採用されたのが、台湾に移って半年後ぐらいのことでした。
-すぐに決まったのは、何がよかったのでしょうか。
國府:当時、台湾には新しい大学が増えて、先生が足りていませんでした。面接では、博士号を持っていることと、日本語が話せることを確認されただけで、模擬授業もしませんでした。
当時、中国語は2ヶ月勉強しただけで、しゃべることはできませんでした。最初に入ったところは応用日本語学部で、日本語が分かる学生ばかりなので、私は経済学と経営の基礎、そのほかに日本語も教えていました。
経営学、経済学の授業は、2年目はほとんど学生がこなくなり、上級日本語のクラスを増やされてしまいました。日本語を教えることは専門ではありませんし、嫌だなと思っていたところ、新竹市にある中華大学で働いていた妻の叔母が辞めることになっていて、「後任を募集している」と教えられて、面接を受けに行きます。
そこでは半分は応用日本語学科で日本語、残りの授業は中国語か英語でやりなさいと言われました。最初は中国語での授業を試みたのですが、学生から「先生の中国語がおかしいので、理解が難しい」などと授業評価で書かれ、バカにされてしまいます。
そこで、英語で教えることにしました。英語での授業をするまで2年間の猶予を与えられたので、テレビはCNN、映画はディズニー、など、家の中の言語を全部英語にしたおかげで英語で授業ができるようになるまで上達できました。
-最後まで中国語では授業をやらなかったのですか。
國府:はい、中国語は、友達や親戚と喋る時だけです。一番上達したのは中国語のタイピングですが、それは、台湾でも子育てしながらオンラインゲームをやっていたおかげです(笑)。

-日本に帰ってきた理由は。
國府:台湾の大学では制度上、昇進が難しかったということと、給料もさほど多くなかったということです。日本の学会に参加するにもおカネがかかりますから、非常に苦痛でした。外国人先生という立場は色々と便利だし、気楽ではありましたが、研究費がたくさんもらえるわけではありませんでした。
それで、日本の大学の公募に応募して、ご縁があったのが現在の大東文化大学です。
-そこではどのような面が評価されたのでしょうか。
國府:日本では論文をたくさん書いていたことと、研究分野の「人的資源管理論」が大学側の条件と合致していたこと、それから面接の時にネイティブの先生が突然英語で質問してきたのですが、台湾で英語を使っていたおかげできちんと答えることができたことも強かったと思います。
-今後の展望はありますか。
國府:今のゼミ生を育てるのが楽しいですし、議論するのが楽しいので、定年までここにいるのもいいかなと思っています。将来は台湾に帰ることも考えるかもしれません。
私のゼミでは 「企業と経営者」という授業を週に1回行っていて、学生が現役の経営者の方と議論する、という鍛え方をしています。他の大学ではなかなか経験できないことだと思いますね。