1979年、国公立大学(当時)の入試制度が大きく変わる。現在の大学入学共通テストにつながる大学共通第一次学力試験(以降、共通一次)がスタートしたのである。回答が自由記述ではなくマークシートでの選択方式になったこと、一次試験としてすべての国公立大学が同じ試験を使うこと、そして何より、試験日が2つの大学グループに分けられていた受験チャンスが2回から1回、つまり一発勝負になったことが、その後にわたって混乱を招くことになる。その混乱前夜、後がない年の受験生は、どう試験に向き合ったのか。

※共通一次導入までは国立大学は一期校、二期校と呼ばれる受験日による制度区分があった(詳細はウィキペディア国立旧一期校・二期校)。一期校は3月上旬、二期校は3月下旬に試験を実施するが、大半の二期校は一期校の滑り止めとして受験生は考えていた。それがゆえに、二期校に行くことになった学生は劣等感を抱えることになり、当時ささやかれた「二期校コンプレックス」という言葉を巡る国立大学の在り方は、国会でも取り上げられている。議事録をひもとこう。
塩崎(注:塩崎潤衆議院議員)(前略)御承知のように一期校と二期校という例の入学試験にからむ問題でございますが、二期校にはたいへんなコンプレックスがある。不満がある。これがいろいろと学校紛争につながり、さらにまた、不満分子が連合赤軍のような問題を起こしたのではいかというふうにいわれる節が多分にあるわけでありますが、大臣が学長を非難されるのも私は十分わかるのでございますけれども、文部行政として一期校とか二期校とかいうような問題がある、この事実を解決してやることも、文部行政の円滑な推進、大学自治の上からいっても、私は当然必要なことではないかと思うわけであります。こういった外的な条件をなくすることによって大学紛争を少なくし、連合赤軍が起こるような言いがかりが起こらないようなことができないか。これはひとつ格差是正の問題として思い切ったことがやれるかどうか、文部大臣の御意見を承りたい。(1972年4月5日 衆議院文教委員会)
連合赤軍事件と絡めて議論されていることには驚くばかりだが、入試問題が作成能力の有無にかかわらず各大学に委ねられてい結果、難問奇問がなくならず統一した入試問題作成が求められていたことと併せ、一期校二期校の制度廃止は共通一次試験導入の大きな動機になっている。
とにかく現役で試験に合格しろ!という雰囲気
まずは愛媛県出身で経済学部に入った井上知行さんの話。
-高校生になって共通一次試験が始まることが決まっていますね。
井上:高校三年生ぐらいになると、新しい試験制度のことが盛んに話題に上がり始めました。
最初にさせられたのはマークシートの練習です。一浪しているので、浪人生の時も練習させられました。
マークシートを綺麗に塗らないと、機械がちゃんと読み取ってくれない、とか、はみ出してもだめだとか、鉛筆の硬さにも注意が必要だとか、入試がどう変わるのかはあまり教えてもらえず、とにかく現役で試験に合格しろ、という感じでしたね。
-当時の感覚として、一期校と二期校をどういう感覚で選んでいましたか?
井上:私は一期校しか候補にならなかったです。二期校としては横浜国立大学がありましたが、広島大学とは偏差値が逆転していましたので、受けるのはかなりの曲芸です。 (経済学部の伝統がある)山口大学や大分大学も二期校でしたが、どうしても国立大学に入りたい、ということなら候補に上がったと思います。ちなみに一緒に広島大学を受けた高校の同期は、広島大学に落ちて二期校の愛媛大学に入学しました。
-一期が大本命だとしたら、不合格の場合は関関同立や早慶が選択肢に上がるのでしょうか。
井上:早稲田大学は受験しようとしたのですが、「国立大学の本命の受験日を控えているのに、倍率が高い大学で、しかも東京までなんでわざわざ行くんだ」と言われて、諦めましたね。当時の交通事情は、受験にも影響していました。(愛媛からは)広島でも遠い感じでしたが、お金さえあれば水中翼船で一時間と便利なのですが、学生時代はお金がないからフェリーに乗って2時間45分かかっていました。
-そもそもなぜ経済学部を志願されたのですか?
井上:社会人になるということは経済の知識が必要だ、と思ったからです。経済学部としては神戸大学は射程に入れていました。赤本を買って問題をやると、まあまあ解けるのですが、数学が難関でした。もうひとつ、大阪市立大学は偏差値としては広島大学の経済学部と同じぐらいでしたが、得点源の理科の配点が他の科目の半分しかなかったので、私にとっては不利だと考えました。
もう一つの要素として、愛媛の八幡浜では広大のネームバリューがすごくあるんです。優秀な人間は東大、京大、阪大に行きますが、その次に広大でした。
-当時の雰囲気として、共通一次試験を受験するのはなるべく避けたい、という雰囲気はありましたか。
井上:ありましたね。一期校、二期校とかではなくて、とにかく今年入れ、と。今年入らなかったら、共通一次という訳の分からない制度が始まるが、一つ下の人たちは、共通一次前提の試験勉強をしているわけです。そういう人たちと競争することになるので、ハンデになる。浪人生にとっては、新しい試験制度の準備期間は一年しかないということになると、どうしても現役学生よりは不利になりますね。
-安全なところを狙うとか、目標を下げるなど、あったのでしょうか。
井上:目標を下げる感じではなかったです。二期校に行く気があった友人たちは、第一志望の一期校の目標を下げるようなことはしていませんでした。たとえば、地元の学校で先生になるなら、二期校の愛媛大学教育学部でいいわけですから、一期校は本当に入りたい大学を受験すると。
しかし、経済学部は、選択肢が減ります。上は候補があるのですが、下は落差が大きくて、偏差値でいうと7-8ぐらい差があったと思います。
-その後広島大学に入学されてから、共通一次世代の後輩たちとの人間性や考え方の違いを感じることはありましたか。
井上:共通一次で入ってきたから、という違いは全然ありませんでしたね。入試制度の違い、ということではなくて、新入生は発展途上の世代なので、すぐに大学という環境や周りの型にはまっていく、ということは感じました。
受験生より教師の方が漠然とした不安感を抱いていた
薬学部に入学したOさんにも聞いた。
-共通一次試験に変わること、国立一期、二期という受験形式がなくなるということは、いつ頃聞きましたか?
O:高校二年生の時ぐらいかな。私は、変わるのだなと思ったくらいですね。逆に先生たちが危機感をお持ちでしたね。後がないから、一ランク落としてでも合格するようにしろと言われました。
おそらく、何がどうなるかわからないというのと、一浪するとすごいハンディキャップが出る可能性があると思っておられたのだと。
-ハンデというのはどういう意味でしょう?現役にとっても同じ条件ですよね。
O:やっぱりガラッと変わるという、漠然とした不安だと思いますね。
先生たちにも情報がないから、指導のしようがなくなるって。そもそも、どういう試験になるかについても聞いてはいたけれど、本当にどうなるかはわからない。あと、チャンスが一回になる、そういう危機感もあったのだと思います。
それまでは大学ごとに非常に個性があった。一期だから上、二期だから下というのではなく、試験に個性があって大学によって大きく違いました。それが崩れていくことも、不安だったのでしょう。
-その時になぜ広島大学を選んだのですか?
O:僕は家庭の事情で、まず国立大学しか行けなかった。それから、家が薬局だったので、薬学一択。親は医者になってほしかったようですが。
当時、国立大学の薬学部は一期に10校程度しかありませんでした。出身の島根から近いところだと、広島大、岡山大、それから、九州大、熊本大、長崎大ぐらい。家庭の事情で、大急ぎで帰らなくちゃいけないことがよくあったので、電話がかかってきたら、すぐ戻れる広島大学を選びました。
-同級生で浪人した方も当然いるはずですが、そういう人たちの声は聞いたことありますか?
O:「却ってよかった。」と言っていましたね。僕と同じ時に受けてダメだった友人が、次の年、非常に楽に京大の薬学部に行きましたからね。
共通一次1年目の年、やっぱり混乱があって、例えば薬学部では、広島大学の場合、60人の定員で74人しか受験生がいなかったんですよ。だから、14人しか落ちてないんです。このようにすごく多いところと少ないところがあったみたいです。
※Oさんが語るように、共通一次試験の出願では大きな混乱が起きている。新聞ネタになったのは京都大学工学部での定員割れだ。
-大学に入学した後、一期二期世代と共通一世代で、雰囲気とか何か違いを感じたことはありますか?
O:それはありますね。なんかですね、一期、二期の頃、要は僕らの頃の方が非常に個性があったかな。
共通一次って、そこがこけたら選択肢がなくなってしまうのですが、入試が一発勝負じゃないから、もう自分のやりたいようにしたんじゃないですかね。一期は一期、二期は二期で割り切っていたようです。偏差値での合格可能性とかいろいろ出ますけど、まあいいや、賭けようっていう気になるんですよね。ダメだったら二期あるし、って。
二級下、三級下を見ても、なんとなく僕らの年が一番変なやつが多かったし、先輩にも変なのが多かったですね。
一級上で、教養の単位が足りなかったわけじゃなくて、取り方を間違えたため、留年して半年、アルバイトして半年アメリカ行って、という人がいました。彼は偉くなりましたよ。
第一志望は譲れない
中島淑乃さんは、当時の女性の置かれた立場が大きく影響したという。
-広島大学を選んだ理由は何だったのでしょう。
中島:高校(福岡県立鞍手高校)2年のころには広島大学の総合科学部に行きたいと考えるようになっていました。「宇宙船ビーグル号」というSF小説の中に「総合科学」という言葉が出てくるのですが、その横断的な学問にあこがれる気持ちを持ったというのがきっかけ、、、ですかね。
家から出たい気持ちもあるのですが、東京や大阪で一人暮らしなんて許してもらえそうになく、福岡から近い広島ならなんとか認めてもらえて、第一志望が希望通り広島大学、滑り止めの二期校でも、近場の山口大学や鹿児島大学を選びました。
-次の年は一発勝負になりますが、心理的なプレッシャーはなかったですか。
中島:もちろん、次の年には入試制度が変わるということは知っていはいたのですが、そもそも浪人して共通一次を受けることは考えられないことだったのです。
当時はまだ、女性は家から通学して公務員や教師になることが望まれていて、うちの母親も家を出て4年制大学に行くなんてとんでもないという考えでした。なので浪人なんてありえず、受験制度が変わるかどうか以前の問題として、女性の進学に対する障壁の方がはるかに高かったのです。
翌年の共通一次があろうがなかろうが、第一志望は譲れない、というのが1978年の受験生の心情であったようだ。

翌年から実施された共通一次試験だが、やはりかなりの混乱があった。象徴的なのは受験生の偏りによる定員割れの発生。かの京都大学ですら、一部の学科(工学部金属系と工業化学科)では志願者が定員に達しない事態が発生して話題になった。結局、16の国公立大学で1,000人以上の二次募集を実施することになった(広島大学では工学部第3類と水畜産学部畜産で計50人)。
※国公立大学の一発勝負はほどなくして大学の序列化を招く、受験競争を悪化させるなどの批判が高まる。それを受けて1987年からはA日程B日程と受験日によって大学をグループ分けすることで(これを連続方式と呼ぶ)再び複数回受験が可能になり、国公立大学入試の一発勝負は8年間で終わる。
しかし、ここでもまた混乱が起きる。世間の耳目を集めた「被害者」はまたもや京都大学である。京都大学がA日程(3月1日から)、東京大学がB日程(3月5日から)と分かれて、東大京大の併願が可能になったため、ダブル合格者が東京大学に流れて、京都大学理学部が70人、医学部、農学部、文学部も20人前後の定員割れとなった。
翌年88年からは京都大学はA日程B日程それぞれに入試を実施する分離分割方式を導入、この方式がほとんどの国公立大学に広まって現在の入試となったのである。
※1978年にはもうひとつ、大学を取り巻く大きな変化があった。一部の私立大学医学部歯学部で横行していた入学前の寄付金納入、つまり多額の寄付金を積めば、入学試験の成績が悪くても入学が許される寄付金入学(裏口入学とも呼ばれていた)の禁止である。今では考えられない入学試験の緩さであるが、文部省(当時)の調査では、医学部の平均が1,600万円超で3,000万円以上も5%、歯学部では平均1,200万円と報じられている。実態はもっとひどいが、真相はやぶの中との指摘もある。
入学前の寄付金が禁止されても、大学運営に資金が必要であることには変わりなく、その穴を埋めるために納付金が一気に引き上げられることになった。78年入学の初年度納付金は実に4倍、平均710万円となり、禁止があろうがなかろうが、私立大学の医学部歯学部はカネがかかることは、今に至るまで変わりはない。
次回はコロナ禍に見舞われた大学と学生はどのような生活を送ったのか、すでに風化しつつある記憶を掘り起こしていく。
本稿シリーズは広島大学OBOGの回顧をまとめたものであり、広島大学の公式記録・見解ではないことをお断りしておきます。
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