弥生時代の墳丘墓 ― 前方後円墳の遠いルーツは広島だった!?

 土や石を積み重ねて丘のような形にしたお墓を墳丘墓と呼びます。これまでの発掘調査で、その発祥地が弥生時代の広島県北部の三次(みよし)・庄原(しょうばら)地方であり、そこで生まれた四隅突出型の墳丘墓(弥生墳丘墓)が山陰地方を経て、形を変えながら伝わった最終的な形態が前方後円墳であることが明らかになりました。広島県北部に残っている墳丘墓の構築方法と葬送儀礼の変遷について、発掘調査で明らかになったことを解説します。

研究者プロフィール

野島 永(のじま ひさし)
教授・文学博士
大学院文学研究科 地表圏システム学講座 
研究分野 人文学 / 史学 / 考古学

 西日本の山陰地方および、その周辺地域となる中国山地は、日本の古代社会である弥生時代(紀元前4世紀~紀元後3世紀中頃)のなかでも、もっとも古く墳丘をもつ墓(墳丘墓)が発達する地域の一つです。弥生時代の墳丘墓は、古墳時代(3世紀中頃~6世紀)に成立する前方後円墳以前のルーツとなる墳墓であるといってよいのです。

広島大学文学研究科のオープンキャンパスの時の出土遺物の展示の様子(2016年8月17・18日)
奥、1970年代、イラン北部周辺で出土した青銅柄バイメタル剣(初期鉄器時代、今から約3000年前)
手前、広島県の古墳から出土した装飾品と青銅鏡(古墳時代前期、今から1700年前)

 平成2008年度から6年間、広島大学大学院文学研究科考古学研究室では、広島県北部、中国山地のなかにある佐田谷(ささだに)・佐田峠(ささだお)墳墓群の発掘調査を行ってきました。佐田谷・佐田峠墳墓群は四隅突出型(よすみとっしゅつがた)墳丘墓を中心とした墳墓群です。この発掘調査によって、西日本の山陰地方と中国山地における墳丘墓の展開について具体的な様相を明らかにしました。その重要な成果のひとつとして、墳丘墓の構築方法の変化の過程がわかったことがあげられます。弥生時代中期末に築造された佐田峠3号墓は墓穴を掘り、遺体の埋葬を行った後に、盛土を行いましたが、これを繰り返したのち最終的に墳丘を成形する「同時進行型」の構築方法であったことが判明しました。これに対し、後期初頭となる佐田谷1号墓は土盛りを行い、墳丘を形成してから、墓穴の掘削・埋葬を行う「墳丘先行型」であることが判明しました。

広島大学文学研究科・文学部で実施した佐田峠3号墓の発掘調査の様子
(2008年8月、四隅突出型墳丘墓の隅部分の検出の様子)

 我々の調査研究によって、山陰地方から中国山地では、弥生時代中期段階には墓穴を掘り、1度埋葬を行った後に盛土を行う「墳丘後行型」か、「同時進行型」が盛んに行われることがわかってきました。また、後期には、「墳丘後行型」・「同時進行型」から「墳丘先行型」に変化していきました。さらに、埋葬施設や墓前祭祀の変化も同時に現れました。墳丘墓の構築方法の変化が、首長埋葬の際の、葬送儀礼の変化(拡大化・荘厳化)の契機となっていたことを実証的に理解することができたのです(図参照)。

 弥生時代後期に出現する「墳丘先行型」の佐田谷1号墓は、墳丘裾の列石と墳丘斜面の貼り石、墳丘に付設される突出部(最終的には前方後円墳の前方部へと継承される)、木棺をおおう木槨(もっかく)施設の導入、墓穴上の丸い小石と朱塗りの大型土器、巨大な墓壙をもつ中心埋葬とその周囲に周辺小埋葬の存在、などといった要素が初めてみられるようになりました。これらの諸要素は各地の大型・巨大墳丘墓に継承されることとなります。つまり、佐田谷・佐田峠墳墓群は、弥生時代後期後葉に山陰地方や岡山県南部、京都府北部の丹後半島などで顕著となる大型墳丘墓のルーツとなる墳丘墓としての特徴を有しており、墳丘墓の変遷を見る上で極めて重要な遺跡であることを指摘しました。

 

 

ドイツ・チュービンゲン大学で行われた墳丘墓の国際学会
(2015年11月4~6日、国際学会“Burial Mounds in Europe and Japan”)の際に
記念撮影したマグダレーネンブルグ墳丘墓の様子

 なお、本研究は墳丘墓の構築方法と葬送儀礼の相関関係にも踏み込んだものであり、日本のみでなく、海外の墳丘墓研究にも比較考古学的視点を提供しうる基礎的考察でもあるのです。

 

この記事は、学術・社会連携室と広報グループが作成し、2017年に公開したものです。


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