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研究者への軌跡

化学者への軌跡

氏名:河内 敦

専攻:化学専攻

職階:准教授

専門分野:典型元素化学、有機金属化学

略歴:理学研究科助教授。理学博士。昭和41年生まれ。平成2年京都大学工学部合成化学科卒業。平成4年同大学院工学研究科合成化学専攻修士課程修了。平成5年同専攻博士課程中退と同時に、京都大学化学研究所助手に着任。平成14年広島大学大学院理学研究科化学専攻助教授に転任、現在に至る。その間、平成9年2月から平成10年1月までの1年間、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団博士研究員としてドイツ・マールブルク大学にて研究に従事。平成12年に「シリルアニオンの化学における新領域の開拓」で第5回ケイ素化学協会奨励賞受賞。「窒素、酸素、硫黄官能基を有するケイ素アニオン種の化学の開拓」で平成12年度日本化学会進歩賞受賞。

 

大学の研究者としての研究生活においては、このうえなく貴重な経験を得られる機会がいくつかあります。その一つが、海外の大学への留学です。一般に、日本の大学で博士号を取得した後のことが多いので、身分は学生ではなく、博士研究員(post doctoral fellow、通称“ポスドク”)と呼ばれます。この場を借りて、私の経験を紹介させていただきます。
 

1997年2月から1998年1月までの1年間,ドイツ・マールブルク大学化学科 Gernot Boche 教授のもとで博士研究員として研究する機会に恵まれました。マールブルクってどこ?とはよく聞かれる質問ですが、マールブルク(Marburg)はフランクフルト(Frankfurt am Main)から鉄道で約1時間、ドイツのほぼ中央に位置しています。丘のうえにそびえる城館を町のシンボルとし、ラーン川(Lahn)沿いに広がった美しい町です。ハイデルベルク、ゲッチンゲン、チュービンゲンと並んでドイツ4大学町の一つとされ、人口約8万人のうち、学生および大学関係者が2万人近くを占めています。大学の歴史は古く1527年にさかのぼり、この地方の領主 Philipps公(大学の校章の中に描かれている)が、ドイツで初めてプロテスタント系の神学を講義する場として開いた大学がその起源になっています。このため、ドイツ人にとっては歴史上重要な意味を持った町です。
 

マールブルクにおける化学の歴史も古く、1609年に J. Hartmann というこの大学の故教授が化学(Chemie)の語源となる“Chymiatre” という言葉を初めて使った、とされています。1848年には E. Frankland がアルキル亜鉛を発見し、その後、Mond、Ziegler、Wittig、Meerwein らがこの大学に籍を置いています。ブンゼンバーナーで有名なBunzen はこの大学の鉱物学科の教授でした。
 

留学当時、マールブルク大学化学科は "Organometallic Compounds as Selective Reagents in Organic Chemistry; Structure and Reactivity of Organometallic Reagents" という研究プロジェクトの中心を担っていました。化学科は20近くの研究室と、研究をサポートする測定機器室(NMR、X-ray、Mass、IR、ESR、元素分析など)、薬品室、器具室、ガラス工作室、金属工作室などから構成されていました。各研究室が高価な大型測定機器を所有することがないかわりに、化学科共通の測定機器が充実しており、その分野の専門家(教授もしくは博士号取得者)と技官とが機器の測定と管理をおこなっていました。これは日本の大学と大きく異なる点で、「分業の国ドイツ」を反映しているのでしょうか。器具の修理や製作はガラス工作室か金属工作室に依頼することになっていました。ドイツ自慢のマイスター制度のおかげか、工作室の職人の腕は確かでした。
 

化学科における教育・研究システムは、研究室に所属するのは日本の修士課程に相当するDiplomandと博士課程に相当するDoctorandだけで、学部生は所属していません(少なくともマールブルクでは)。そのかわり学部の最終学年では、実習生 として、学期休みに希望する研究室で実験する機会が与えられます。彼らは、簡単な原料合成実験やセミナーへの参加を通して、各研究室の研究内容や雰囲気に触れることができます。さらにドイツと日本とで大きく異なる点は、化学を専攻する学生のほとんどすべてが博士課程まで進学することです。これは、化学系企業が博士号取得者のみを研究職として採用することが主な原因のようです。しかも採用の絶対数が少ないので、就職は狭き門とのことです。このため化学科への入学者数が近年大幅に減少し、問題になりつつありました。日本からのポスドクは少なく、化学科には私1人(他に生物学科に1人、物理化学科に1人、薬学科に1人)というある意味で恵まれた環境に身を置くことができました。
 

さて、私が研究生活を送った Boche研は当時、Gernot Boche教授以下、おおよそ学生10名、ポスドク3名(オーストラリアおよび日本)、客員教授1名(ロシア)、実験助手2名、結晶構造解析専門の技官1名で構成されていました。実験助手・技官の人たちは、大学ではなく専門学校で職業に応じた専門教育を受けています。ドイツの大学にはこのような人たちが大勢研究に従事しています。
 

当時のBoche先生の研究テーマの一つとして、カルバニオンの合成、構造、反応に関する研究が挙げられます。特にヘテロ原子有機リチウム化合物の結晶構造解析に関しては優れた業績を挙げていました。Boche先生自身は結晶学の専門家ではないのですが、Michael Marschという“「幸運な手」を持つ”結晶構造解析の技官が1979年以来片腕として活躍していました。
 

研究の大きな流れとしては、ヘテロ原子有機リチウム化合物特にcarbenoidに始まり、その中心原子を炭素から窒素にかえたnitrenoid、酸素にかえたoxenoidの合成・構造解析に成功していました。Boche先生はほぼ毎朝、実験室を回って、学生やポスドクと議論していました。また、研究内容に深くかかわる論文が雑誌に掲載されると、先生は学生を指名してその論文を読ませ、セミナーで発表させていました。OHPを使って誰もが実に堂々とプレゼンテーションするのには驚きました。
 

化学科の特筆すべき行事としては、学位授与式後におこなわれるパーテイーがありました。学生のほとんどが学位を取得しますから、年に数回は各研究室でこの手のパーテイーが開かれることになります。このときは学位取得者が自腹で料理や飲み物を用意します。かわりに研究室では、新しい博士のために帽子を作ります。画用紙で骨格を作り、周りには毛糸や小さなおもちゃや雑誌の切り抜きなどを飾り付けるという、なかなか凝ったものでした。授与式が終わると、まずゼクト(いわゆるシャンパン)で乾杯し、用意した「博士帽」を学位取得者にプレゼントします。この瞬間が、学生にとっては本来の授与式よりも晴れがましいようです。そのあと各研究室で料理や飲み物が振る舞われます。初めは行儀よく座って料理を食べていた学生達も、ビールがまわってくると騒ぎ始め、夕方頃にはよその研究室へおしかけたりおしかけられたりして、深夜2〜3時頃までパーテイーは続いていました。
 

秋には、隣町のギーセン(Giessen)にあるリービッヒ博物館(Liebig Museum)を見学する機会を得ました。これは分析化学の先駆者 Liebig の実験室を当時のままに保存してあるものです。ちいさな建物の中に当時の元素分析の器具などが展示され、ドイツ化学の原点を感じることができました。また、昔のものをきちんと保存しようという姿勢に感心しました。Liebig 研の1日のスケジュールを見ると、なんと朝6時半に実験開始!というのには驚きました。
 

このように周囲の人々のおかげで、充実した1年間を過ごすことができました。この経験は、その後の私の研究生活において大きな糧となるものでした。


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