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研究者への軌跡

“未知との遭遇・先が見えない楽しさ”

氏名:安倍 学

専攻:化学専攻

職階:教授

専門分野:光エネルギーを用いる有機反応の開発

略歴:大阪府堺市出身。上宮高校を卒業後、1浪をして、京都工芸繊維大学に入学し、1995年3月博士(工学)の学位を所得、同年4月大阪大学大学院工学研究科助手として採用され、独国ヴュルツブルグ大学に留学した。その後、阪大にて講師、助教授を経て、2007年4月広島大学大学院理学研究科教授となり、現在に至る。
2007~2009年 九州大学先導物質化学研究所客員教授、2009年三重大学工学部客員教授、2009年群馬大学工学部客員教授を務め、2011年4月~分子科学研究所客員教授兼任している。2005年有機合成化学奨励賞、2007年野副記念奨励賞、2009年 Zimmer賞(米国)している。Bulletin of the Chemical Society of Japan (BCSJ) とAustralian Journal of Chemistry 編集委員を務めている。

 

「研究(=人生?)は先が見えないから楽しい」と心底から思う。これをしなければならない、こうならなければならない、というミッション型で行動するよりも、自分で楽しめそうなことを見つけて先が見えないけれども行動する方がずっと良い。冒険心を持って進むのは楽しい。そうは思えなくても、そう思って行動してみよう!
 

自分が楽しめそうなことを見つけてと簡単に言うな!それが見つからないから困っている、悩んでいる!という声が聞こえてきます。論文や教科書を読んでいて、勉強をしていて、わからない、と思ったことはないでしょうか。そのわからないって、思ったこと感じたことが「楽しめることを見つけた」ということだと思います。そのわからないと思ったこと、疑問に思ったことを寝食を忘れて調べてみませんか。他人の受け売りではない自分の研究テーマが見つかります。
 

この機会に、高校生、大学生、後輩に伝えたいことは、自己規制で自らの進む道を狭めていないか?みんな、良い子になろうとしてませんか?人の顔色ばかり見ていませんか?先生が悪い、学校が悪い、社会が悪いとか他人のせいにしていませんか?自ら先が見えないところに飛び込んで、もがいて、自分の進む道を自分で見つけてみないか!そういう楽しく充実した時間探しの方法もあるということを。自分が知りたいと思うことで没頭して見つけたことは、必ず、他人のため社会のためになる発見です。臆することなく、自分にとって未知なることに挑戦してみよう。広島大に来て4年経ちますが、いろんな創造ができる広島大学(「学問は最高の遊びである」を標語)ってとっても良いところです。中でも、理学ってシンプルで深くてとっても楽しめます。学んでみましょう!
 

私は、いろんなことを考えすぎて後悔して落ち込むたちなので、振り返ることを避けてきましたが、今、そのように思うことができるようになっている自分の走ったり、戻ったり、立ち止まってうろうろしてきた時間、人との出会い、これまでの私の未知との遭遇を考察してみたい。
 

現在の自分がいるのは、京都工芸繊維大学に入学できた事から始まる。とにかく、マークシート方式の試験が苦手で、なぜこんな小さな穴に丸をしかも決まった鉛筆の種類で記入しないといけないのだろう、と採点する人のことも考えずに勝手なことを試験中に考えながら英語の問題に解答していた。試験終了2分前に、最終チェックをしていると、マークシートの解答欄がずれていることに気付いた。すでに1浪をしていた私は、天井を見上げて自分の浅はかさを反省し親に謝りながら2浪を覚悟しました。でも、他の科目が割と出来たせいか、京都市の北山のふもとに位置する京都工芸繊維大学に入学することができた。2次試験を受ける前まで私にとっては名前も聞いたことがない大学でした(一つ目の未知との遭遇)。
 

本当にたくさんの人生を左右する方々との出会いがありました。研究に関すること以外ですと、今でも家族ともども仲よくしている大学1、2年生の時のアルバイト先の方、家庭教師先のご家族、年に1度のゴルフ仲間など・・・。研究に関する出会いとしましては、共通一次(現在のセンター試験に相当するもの)の点数の関係で入学できた(するしかなかった)「工業化学科(高校の時の成績は良かったが覚えるばかりの化学は嫌いでした。二つ目の未知との遭遇)」の新入生のところに座っていると、学長が現れ、お話を始められました。今でも心に残っている言葉(3度目の未知との遭遇)が「自ら学ぶ姿勢と自然への感受性を大切にしなさい」でした。その当時は、受験に失敗したと思いながら入学していた私にとっては、衝撃的な言葉でした。「自ら学ぶ」とは?「自然への感受性」とは?う~ん、と思いながら、当時は携帯電話なんてありません、インターネットなんてありません、ツイッターで呟くこともできません。図書館で分厚い百科事典を広げて、学ぶとは?自分の名前が「学」ですから、ある程度のなじみはあったのですが。自然への感受性とは?単語としては分かるのですが、19歳の私にはとっても重く理解不能の言葉で、時が過ぎて行きました。学長の名前は、福井謙一です。1981年に日本で初めてノーベル化学賞を受賞した先生でした。その当時は、心に響く「言葉」を発する人だなとは思いましたが、将来自分が関わるような人ではないと思っていました。今、3年生の授業で教えているのは、「フロンティア軌道論(福井謙一)を含む反応有機化学」です。
 

授業が始まりました。1週間で大学を辞めようと思いました。広い講堂の一番前でぼそぼそと、下や黒板を向いてお話をされている先生方の言っていることが全く分かりませんでした。その当時の担任の先生(チューター)の西村淳助教授(のちに群馬大学の教授として転出し、一昨年ご退官)に話をしに行くと、「いろいろ学んで4年生まで早く進学してきなさい」、と言われた(また、学んでの言葉が出てきた)。今のように手とり足とりの手厚い(過保護)指導はありませんから、日本語とは思えない文章が書かれている分厚い教科書との葛藤が始まりました。でも、全然理解できませんでした。出席管理が厳しくなかったせいか、四畳半の間借りの下宿で、悶々とする時間を過ごしながら、何となく3年生に進学し、専門の講義が始まりました。
 

高校から全く理解できなかった有機化学(今では私の専門)が始まり、高分子化学、無機化学、化学工学、有機工業化学・・・2年生までさぼっていた私にとっては、全て未知との遭遇(4度目)でした。 なんとなく高校時代の先生(浅田俊先生)の言葉、「置換反応は面白い」の言葉を覚えていて、一番苦手でわからなかった有機化学から、勉強、いや、自ら学び始めました。別に予習をするつもりではありませんでしたが、自分なりに教科書を読んでいて、わからないところは想像しながら、その部分の有機化学の授業をとっても楽しみにしていました。わからなかったところにくると、その先生は、私の勝手な自分なりの考えを真っ向から否定する説明を始め、別の視点から疑問点を明解に説明してくれました。その説明がどこから来るのか知りたくて、参考書に挙げられていた「パインの有機化学」を食費を削って購入し(とっても高かった記憶があったので、今、この原稿を書きながら値段を見ると7004円です、当時の下宿代がひと月7000円でした)、読みました。もう、涙が出るほどうれしくて感動しました。その先生は、奥 彬という先生で、7年後、私が学位を頂くことになる先生です。のちに聞いた話ですが、田舎の小さな単科大学が博士号を取得できる大学にするために、当時の学長、福井謙一先生と奔走されたと聞いています。わからないこと(=楽しめること)に挑戦してみてはどうでしょうか。必ず、楽しいことが待っています。その後、4年生になって6年間を奥彬研究室ですごし、阪神淡路大震災の年に学位を取得し、大阪大学に助手として職に就きました。

左から後輩の沼田さん(九州大学で博士号取得後、現京都府立大准教授)、奥彬先生、筆者(2010年)

 

大阪大学までモノレールで通えて、京都にも1本で通える南茨木に下宿を移し(家賃は何と9倍近くになり)、助手(今の助教)という初めての仕事5度目の未知との遭遇)につきました。助手は、訓読みすると、「たすけて」となり、とっても難しそうな職でした。今の助教とういう言葉には、味がないですね。大阪大に私を引っ張ってくれたとはいうものの一度も面識がない先生から、2月15日ごろ電話があり、研究テーマ4つ考えといて、といわれました。うん、何?というのが最初の印象で、黙して語らないその先生(野島正朋先生、2011年、古希のお祝いをする!)との出会いは、6度目の未知との遭遇でした。4月1日に大学にいくと、阪神淡路大震災の爪痕が残っており、立ち入り禁止区域等が見受けられました。教授室を訪問すると、煙草をくわえながら大阪弁で「好きにせ~や」と言われ(大阪人の私にはその意味が良くわかりましたが、ふつうの人が聞くと怖いですね)、戦いが始まりました(7度目の未知との遭遇)。益山新樹先生(現大阪工業大学教授、トラキチ)、「助手」くれてありがとうございました。もがいて苦しんで生み出してきた研究を、今も、未知との遭遇を楽しみながら広島で展開しています。学生は苦しんでいるでしょうね。もっと“未知との遭遇”をして楽しんでください。

3年が経過したころ、博士研究員として、ドイツに留学する機会に恵まれました。研究室の先生がとっても怖そうなWaldemar Adam先生で、日本語が分からない人と密に接触する初めての経験でした(8度目の未知との遭遇)。ドイツ語研修を2カ月、ビュルツブルグ市(レントゲンが研究したところ)の研究室で13カ月過ごしました。私自身が国際的な感覚をもった人間として成長することができた大切な時間です。”Try Harder! Think Deeper!”です。研究に対する姿勢、面白さを教わりました。研究室で苦楽を共にした研究生仲間との出会いもとっても大事な財産です。今でもAulelia Pator博士(スペインMurcia大学講師)とは家族ぐるみの付き合いが続いています。他にも、ジーゲン大のHeiko, ケルン大のAxelなどいろんな人との出会いがありました。みなさん、日本にとどまらず、世界へ出てきましょう。きっと楽しい未知との遭遇が待っています。

右から二人目がAdam先生、3人目が筆者、1人目がAurelia(2002年)

 

4年前に広島で新たな職を得ることができたわけですが(理学という9度目の未知との遭遇)、これからもいろんな“未知との遭遇”を楽しみにして、研究を学生たち(=これも私にとっては未知との遭遇)と一緒に楽しんでいきたいと思います。ついてくる学生は大変でしょうか。でも、楽しいと思います。いっぱい、未知との遭遇をしてください。


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