ガラスの白鳥と黒い白鳥
氏名:中島 覚
専攻:化学専攻(自然科学研究支援開発センター)
職階:教授
専門分野:放射化学、錯体化学、放射線安全管理学
略歴:
1981年 信州大学工学部卒業
1983年 東京都立大学大学院理学研究科修士課程修了
1987年 東京都立大学大学院理学研究科博士課程修了(理博)
1987年 日本学術振興会特別研究員
1989年 デンマーク王国オーデンセ大学博士研究員
1990年 理化学研究所基礎科学特別研究員
1991年 広島大学助手理学部
1995年 同助教授アイソトープ総合センター
2007年 同教授自然科学研究支援開発センター
理学部の研究者には子供時代から理科大好き人間で最初から研究者を目指していた人もいることは確かですが、それがすべてではありません。子供時代、自分の興味の方向はわかるが、どのような未来があるかわからない人も多いと思います。私もそのような子供の一人でした。
小学生のころ理科の中で化学に関係することで記憶していることといえば、図鑑を見ていて魅せられた、いわゆるパスツールの白鳥フラスコくらいです。その不思議な形のガラスの白鳥が何とも美しいと惹かれました。それと、小学校を卒業するころ、早熟な友達が原子、分子の話をしているのを聞き、とても興味を持ちました。そんなこともあって理科は好きでしが、それにのめり込むわけではなく、他の科目も好きだったり、もちろん苦手の科目があったり、それよりも野山を駆け巡るのがもっと好きだったわけで、どこにでもいる子供でした。このような調子で中学高校も過ごしました。
学部から大学院にあがり、研究者にあこがれながらも自分がなれるとは考えていませんでした。研究者になるという決め手が自分自身でわかりませんでした。大学院では混合原子価化合物の研究を行っていました。化合物中の鉄の原子価は普通二価か三価です。一つの分子のなかに複数の原子価をもつ化合物を混合原子価化合物と呼びますが、それはそれぞれ単独の原子価をもつ化合物にはない新しい性質が発現するため大変興味深いものです。このような化合物を調べますと、二価の鉄と三価の鉄が独立に観測される場合とあたかも2.5価のように観測される場合があります。その原因を知るため置換基を少しずつ変えて研究を進めておりましたが、このような進め方で本当によいのか疑問に思うことがありました。そんな日々の中、再結晶していたビーカーの中で二種類の結晶が存在していることに気が付きました。それらの化学組成はまったく同じでしたが、結晶構造が違っていました。そして両者で混合原子価状態が異なっており、分子間の弱い相互作用が混合原子価状態を決めることを示すことができ、やっと研究者としてやっていけそうな気がしました。
ガラスの白鳥を使って実験を行ったパスツールが、ワイン樽の中からわずかに形の違う酒石酸塩の結晶を見つけ、一方が偏光した光を右に曲げ、他方が左に曲げることを示しました。もちろん系は違いますが、同じ化学組成なのに構造が違うために混合原子価状態が異なるものを見つけることができ、大変うれしく感じました。パスツールと似たような経験を追体験できたのは幸いでした。後になって、置換基の種類を少しずつ変えながら研究をすることの重要性にも気が付きましたが。
助手から助教授になる時、化学科からアイソトープ総合センターに移りました。その時の私の状況を考えるとそうするのが良いと判断したからです。化学の教育研究に割ける時間は減りましたが、面白い経験もしました。例えば、使う放射性同位元素の量から、移行率、飛散率、希釈率、除去率などがわかれば環境中に出ていく放射性同位元素の濃度や量を推定することができます。もちろんこのような飛散率などはとても保守的な値が用いられています。放射線施設では環境中に出ていく濃度が法律で定められた濃度より下回るような使い方をしています。特に面白いと思ったのは、このように慎重な使い方をしていても場合によってさらに10倍の安全係数を考慮することがあり、慎重の上に慎重を重ねている点です。
慎重に考えるのは原子力発電所でも同じです。原子炉の安全設計のために多重防護が行われています。その一つとして、原子炉から放射性物質が漏えいしないように5重の壁が設けられております。すなわち、燃料ペレット、燃料被覆管、原子炉圧力容器、原子炉格納容器、原子炉建屋で防護されているわけです。慎重の上に慎重を重ねて完璧なようですが、福島第一原子力発電所事故ではいとも簡単に漏れてしまいました。
黒い白鳥、これはもちろんナシーム・ニコラス・タレブの「ブラックスワン」(ダイヤモンド社)に由来します。オーストラリアが発見されるまで、私たちは、白鳥はすべて白いものだと信じていました。しかしながら、オーストラリアには黒い白鳥がいたわけです。黒い白鳥の特徴として三つあります。一つ目が異常であること、二つ目がとても大きな衝撃であること、三つ目が、異常であるにもかかわらず、いったん起きてしまうといかにもそれらしい説明がなされること、であります。福島第一原子力発電所事故がまさにそれです。
化学専攻併任教授としてガラスのフラスコの中に黒い白鳥はいないかといつも考えています。広島大学には放射線災害復興を推進するフェニックスリーダー育成プログラムが存在します。そのメンバーとして放射線災害に関する黒い白鳥にも迫ってみたいというひそかな思いもあります。若い人には、興味ある分野に思い切って飛び込んで、その中で一生懸命もがけば未来が見えてくると伝えたいです。