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研究者への軌跡

研究の魅力を知るまでの彷徨と出会い

氏名:楯 真一

専攻:数理分子生命理学専攻

職階:教授

専門分野:核磁気共鳴分光学、生物物理化学

略歴:1985年東京大学薬学部卒業、(財)東京都臨床医学総合研究所・研究員、東京都立大学・理学部化学科・助手、北陸先端科学技術大学院大学・新素材センター・助教授、生物分子工学研究所・機能制御研究部・部長を経て2006年より現職

 

私は、中学・高校時代は柔道部に所属しクラブ活動が生活の中心であった。そのため、将来については具体的な考えも無いまま大学に進学した。このような私にとって教養学部時代は、生涯没頭できるものを探す貴重なモラトリアム期間であった。文化的潤いとは無縁の生活を送ってきたことに対する負い目もあり、大学進学後は体育会系生活を一掃して、文化的なものに徹底して没入することで視野を拡げ生涯をかけて興味がもてるものを探ろうと考えた。東京での一人暮らしであったため、時間だけは豊富にあった。学生割引の最後列席でオーケストラ定期演奏会を聴き、格安チケットを手に入れてはオペラを鑑賞し、都内の美術館を巡った。大学の図書館に入り浸り、理系の専門書ではなく古今東西の文豪と呼ばれる作家の著作を読み漁った。このような試みのなかで気が付いたのは、意外にも文芸作品よりも哲学的な著作に魅かれ、きらびやかなモーツアルトのアリアも好きだがマーラーの交響曲にも魅かれるという自分自身の体育会系らしからぬ性格であった。自分では、漠然とエンジニアのような実学的な仕事が向いていると思っていたので、観念的なものに引かれてゆく性格が強いことに気がついた時は、戸惑った。カントの「純粋理性批判」を、ノートを取りながら精読したのもこの時期であるが、哲学書にある思考過程をたどるのは楽しいが、これから何を吸収したらよいのかさっぱり分からず、観念的ではない具体的な思考対象が欲しいという焦燥感が募るだけであった。
 

そのようにしながら大学生活にも慣れた頃、教養学部で光電子分光学という実験化学の研究をなさっていた大野公一先生が、量子力学のテキストを使った輪読会をなさっていることを知った。かねてから量子力学には興味があったのと、そろそろ文系的生活にも食傷気味でもあったので大学1年生の秋から大野先生の輪読会に参加した。独学で量子力学を勉強するのも不安なので、輪読会で勉強できれば幸いというような軽い動機であった。この輪読会で用いたテキストは、光電子分光学の専門書の導入部として書かれた専門家向けの量子力学の概要であった。輪読会では、この初学者にとっては不完全なテキストの行間を埋めるように量子力学の概念や式の意味を徹底的に読み解くことが求められた。光電子分光学の専門家にとっては常識となっている量子力学の概念や式の一つ一つを納得するまで議論するという輪読会は、とても受身で勉強するような雰囲気ではなかった。夕刻から始まる輪読会は、しばしば終わるのが10時を回ることもあり、週1回の輪読会の終了後は精魂尽き果てるというような状態であった。テキストに書かれている内容を突き詰めて考えると、さらにその先に疑問が出てくるという経験は、およそ高校の理系教科では味わったことのないものであった。当時は、自分の勉強が足りないために次々と解らないことが出てくるのだと情けなく思っていたのだが、これが学問の深みを知るはじめての体験であったことは、今になってよく分かる。文芸作品や哲学書を読み込むことを通して「深遠な何か」をつかみたいともがいていたのだが、この輪読会を通して(およそ文系的な素養のない)私でも突き詰めて考えてゆく具体的な対象があることを実感できたのは、半年間の輪読会を精魂つぎ込んでやり終えた後であった。
 

輪読会とともに、大野先生の計らいで大野研究室の装置を実際に使って光電子スペクトルとPenningイオン化電子スペクトルの測定を1年生の冬にやらせてもらった。ジクロロエチレンのスペクトルを測定し、分子軌道の形から予測される希ガス励起分子との反応性と光電子エネルギーの値を基にして分子軌道エネルギー順位の帰属を行った。この作業を通して、完全に制御された装置を用いて丁寧に計測したスペクトルに対して、理論的に精緻な考察を進めることで、(大げさに言えば)自然界の摂理を解き明かすことができるという楽しさを知ることができた。光電子分光法を理解するための理論を数ヶ月必死に勉強したおかげで、スペクトル解析の過程がよく理解できたのも大きな自信になった。
この体験は、分子分光学という研究分野が、精緻な理論的考察と完全な計測技術の2つを両輪として進むものであり、理論だけあるいは実験だけでは成立し得ない奥深さを持ったものであることを私に強く印象づけた。観念的なものに引かれながらも、具体的な対象について思索を深めたいという欲求に駆られていた当時の私は、この時心底から分子分光学の研究をやってゆきたいと思った。
 

現在、私は核磁気共鳴分光学者として蛋白質などの複雑な生体高分子の研究を進めている。今日このような研究を生業とするに至ったのも、自分自身の興味を解放し、全てのこだわりを霧散させた後に何が残るかを突き詰めた大学1年目の精神的彷徨と、分光研究の本質を、身をもって教えてくださった大野先生との出会いがあったためと思う。「求めよ、さらば与えられん」(マタイによる福音書)ということかと思う。


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