研究分野、研究テーマ
憲法:憲法の基礎理論、政治・経済学的分析を応用した国制理論の研究
経歴
1976年3月生まれ。2004年、広島大学大学院社会科学研究科法律学専攻博士過程後期単位取得退学。修士(法学)。新居浜工業高等専門 学校(専任講師)、姫路獨協大学法学部(准教授)を経て、2013年4月より現職。専門は憲法学。
学部の教育内容
学部では、法学部専門科目の基本的人権、教養教育科目の日本国憲法等を担当しています。ここで講義の一端をみてみましょう。
憲法とはなんでしょう?
憲法は国家権力を統制し国民の自由を守るためのルールです。憲法典には権力の配分やその発動のための手順と、人の権利が規定されています。 前者を統治機構、後者を権利章典と呼びます。
権利章典のなかでも重要な権利をひとつあげてみてください。
生存権ですか? 私たちは学校教育の課程において、生存権に代表される社会権の重要性を、たしかに教わりました。しかし社会権の歴史は浅 く、近代的な自由(強制のないこと)と両立しがたいことを講義ではみていくでしょう。
近代的な自由の代表格は信教の自由や表現の自由です。特に民主制を採用しているわが国においては、政治的な表現の自由保障がとりわけ重要だ と説かれることがあります。なぜなら、国民自身により国民が統治されているといえる状態(自己統治、民主政の価値)を作り出すためには、国民 の声を政治にじゅうぶん反映させる必要があるからです。
反面、経済的自由権については、手厚く保障する必要はないと説かれることがあります。なぜなら、表現の自由が手厚く保障されていれば、不合 理な経済規制は、国民の声が反映されている政治過程をつうじて撤廃されていくと期待されているからです。
そんなバカな!? 経済利権こそ、石にかじりついてでも、国家権力をつかってでも、温存したいと思うのが人情でしょう。そのような利権(既 得権)を、しがらみだらけの政治過程を通じて撤廃することのなんと難しいことか!
参入規制や競争制限等、既存業者に有利な規制の問題解決を、表現の自由と政治過程にゆだねておくことは正しくないでしょう。経済的自由の憲 法保障のありかたを再検討する必要があります。
富の再分配をともなう社会権保障は、既得権の温床ともなりえます。弱者保護の美名の裏に、浅ましい利権構造が潜んでいるかもしれません。
このように、わたしの講義では、いわゆる“人権教育”とは毛色を異にし、自由の古典的な意味を重視しながら、人権保障のあり方を考察していきます。
大学院の教育内容
大学院では、憲法理論という講義名で、政治哲学、経済哲学を参照しながら、憲法解釈の根底にあるべき憲法哲学を考察します。
受講人数にもよりますが、通常は文献を講読し、議論をしながら講義を進めていきます。2013年度は、R・ノージック『アナーキー・国家・ ユートピア』およびHans-Hermann Hoppe, Democracy -- the God That Failed を講読しました。前者は、リバタリアニズムから最小国家を論じた書、後者はアナルコ・キャピタリズムの論者の手による書です。
従来の憲法学は、人道主義的なリベラルの思想に明に暗に依拠し、自由を論じながら自由を縮減させてきたのではないか。かかる問題意識を持ち ながら、憲法解釈を批判的に再構築していきます。
最近の研究について
近時は、経済秩序の憲法保障について研究しています。
憲法はいかなる経済秩序を保障しているのかについて、従来、必ずしも明確に論じられてこなかったと思います。そこで、経済秩序の意味を確定 しようとしています。
経済秩序、とりわけ“秩序”の意味を検討していくと、自由との関係が無視できなくなります。そこで自由とは何かを考察する必要が生じてきます。
自由については種々の研究がありますが、憲法学上の法定意味の自由に限定して考えていけば、最も基底的な自由として、リバタリアニズムの自由論が無視できないことに気づきます。この自由論は、自分の身体は自分の物であるということ(自己所有権)を不可侵の自由と位置づけます。私 の身体は、他者によって強制されないことは直感的に正しいと思われますし、これ以上さかのぼれないという意味で、公理ともいえるのではないで しょうか。したがって、自己所有権に反する強制は演繹的に不正義となるでしょう。
だとすれば、秩序に関しは、強制的な秩序ではなく、強制によらない人の自由な行為の結果としてできあがる自生的秩序が正義にかなう秩序であるということになるのではないでしょうか。
経済秩序を自生的秩序だと考えた場合、経済秩序への権力的介入(法規制や行政的な干渉)を緩やかに認めてきた憲法学は、反省を迫られなけれ ばなりません。
はたして、このように一貫した理論を構築することができるでしょうか。これが目下の研究テーマというわけです。