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研究者への軌跡

ペラデニア大学(スリランカ)ゲストハウスにて、元留学生De Costa博士の家族と

 

理学研究者への軌跡

氏名:鈴木 克周

専攻:生物科学専攻

職階:教授

専門分野:微生物遺伝学、植物分子細胞構築学

略歴:1957年生まれ。名古屋大学農学部卒業、名古屋大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)。工業技術院化学技術研究所技官、広島大学理学部助手、理学研究科助教授を経て現在に至る。専門は分子遺伝学で、性的接合、特に生物界間の接合現象を研究対象としている。気ままな旅行を好むが近年は地図の上でのみ土地をたどることが多い。スリランカの大学を訪問指導した折に元留学生が案内してくれた高地の茶園と内陸部の仏教史跡が最近の印象深い所です。

 

研究の紹介
地球上には百万種を超える生物が生存して消長を繰り返しています。これら全ての地球上の生物は細菌界と古細菌、それから真核生物界に分類されています。細菌界の生物(バクテリア)は接合伝達とよばれる現象によって1つの細胞から他種の細胞へ遺伝子が移ることが知られています。抗生物質などの薬剤に耐性を獲得したバクテリアが蔓延して社会問題となっているのはこの接合伝達現象の結果の一例です。

真核生物界(植物、動物、菌類、原生生物)では種毎の性分化が厳格で細菌界で見られるような広い意味での性的現象はありません。酵母菌のような単細胞の真 核生物でも細胞間の性的な融合が行われますが、必ず同種内の異性間でのみです。ところが、真核生物に遺伝子を注射するバクテリアがいるから驚きです。遺伝 子組換(GM)食品に関心のある人は組換え植物を作るのにアグロバクテリアを利用すると聞いたことがあるかもしれません。遺伝子を注射するバクテリアで す。組換え植物を作るのに使われている細胞株は、もともとは植物に根頭癌腫病という病気をおこす厄介な細菌です。バラの栽培を熱心にしている方はこの病気 に罹患した植物を見たことがあるかもしれません。組換え植物を作るのに使われるアグロバクテリアでは遺伝子を注射する力をもったまま病気は起こさないよう 改造されています。

実は、もっと多くの種類のバクテリアが別の仕組みで酵母へ遺伝子を注射できることも最近わかってきました。遺伝子を注射する性質についてよく知れば病気を防いだり便利な組み換え体を作ったりするのに役立ちます。また、この現象によって自然界でもこれまでにない性質の生き物が作り出されている可能性もありますから興味が尽きません。私たちの研究室ではこの遺伝子を注射する能力をもったバクテリアを詳しく調べています。遺伝子を受け取る側の細胞の仕組みも調べはじめました。

付属植物園前の乾先生台座にて 研究室での最初の学位取得者西川君

 

高校生・大学生だったころ
私は静岡県の西部地方で高校生生活を送りました。現在の高校の生物教科書に普通に記載されている生化学と分子生物学の項目は私の学年で始めて導入されたところでした。新しい生物学の影響を受けた私は生物を化学的に調べるような分野に進みたいと考えて化学の小竹先生に相談したところ農学部の農芸化学科を薦められました。

入学した農学部では実学的な授業も必修でしたが私はまったく不熱心で、分子生物学や生理学、微生物学など興味を持った授業に出席したほかはクラブ活動やアルバイトに傾倒していました。2年生になると実験実習を受講するので忙しくなり同じ学科の同級生との縁が多くなりますが、1年生のころからの同級生や下宿仲間ともよい付き合いが続いています。

4年生になって卒業研究のために研究室へ参加して不完全菌Trichosporonという微生物がパラベンという防腐剤(p-Hydoroxybenzoic acid)を酸化分解代謝する生化学反応に取り組みました。指導教官の伊藤昌雄先生は学術論文と先輩学生の論文を貸してくださり先生が取り組んでいる実験のことを解説してくださった以降はほとんど私の行うことをじっと見守るという指導形態でした。当時よく研究されていた細菌による代謝経路を予想して酵素活性と代謝中間産物を検出する手法をとったところ第一段階の反応は予想通りの結果を得ましたが、次の反応の段階で少しも期待した結果が得られずに卒業論文発表会を迎えてしまいました。

やや欲求不満の形で大学院に進学して次の反応を調べることに取り組みました。試験管内反応実験に構造の異なる補酵素を添加したところ基質物質量に応じて酸素が取り込まれましたが、予想した中間物質は現れてこなくて再びしばらく研究が滞りました。結局HQolという中間産物を検出して酵素の性質を調べました。HQolは市販されているものを購入して実験に利用しようとしましたが、市販の物質は化学の原著論文に記載されている白色形状とは程遠いほどの墨灰色の状態でした。やむなくドイツ語で書かれた合成方法の論文を読んで自分で化学合成しました(大学の教養教育で勉強したドイツ語が唯一役立った)。結晶化して精製するという単純な最終段階がなかなかうまく行かずあせって手間取っている間に市販のものに近い墨灰色に変化してしまいます。何回も取り組んだ末にようやく結晶化できたので当初の目的の代謝酵素反応に用いたところ酸素の吸収や物質変化も速やかに進んでくれました。慣れない化学合成や精製に取り組んでいる待ち時間の間に、件のHQolは大変に不安定だから細胞の中では安定になるようにする因子があるに違いないと妄想しました。この安定化因子は容易に検出できて代謝反応の研究結果とともに2つの英文の論文として出版できました。
 

理学研究科での学生生活
大学院の後期課程では真核生物の分子遺伝学的な研究に取り組みたいと考えて理学研究科に進学し、柳島直彦先生の研究室に移りました。酵母菌Saccharomyces cerevisiae(サッカロミセス セレビシエと読む)では2種類の細胞(a型細胞とα型細胞)があって、混ぜ合わせると接着して細胞融合する現象が起こります。私はα型細胞を薬剤処理し突然変異体を作成して細胞接着できない変異体を選抜しました。柳島直彦先生も伊藤昌雄先生と同じく見守るという指導形態だったので、私は試行錯誤して研究に取り組み始めます。一年半ほど経ってから、細胞接着に特異的に働く遺伝子の変異体を見つけ出してagα1遺伝子と名付けました。この変異体の解析から細胞凝集によって異性細胞と結合して細胞質融合に進行するが、凝集がないと細胞対はブラウン運動にさえ不安定となって細胞融合に至れないことがわかりました。このような場合でも相手細胞と融合しようとして細胞伸長しますが、目的かなわず伸びきった単独細胞や細胞壁の一部だけ結合して細胞質と核融合を果たせなかったカップル細胞が観察できます。一方、高度に性的に興奮しているタイプの変異体も選抜してias遺伝子と名付けました。新しく見つけた遺伝子に名前をつけるというのは楽しいことです。agα1遺伝子はドイツとアメリカのグループがクローニングして解析してくれました。この前後に米国に行く機会がありLee Hartwell先生にagα1変異体のことを説明すると後ほど総説に大きく解説紹介してくれました。研究者見習い時代で時間をふんだんに使うことができたころの懐かしい思い出です。農学部の先生たちは皆紳士的なのに対して、理学部の先生は個性的という印象です。研究室での生活は大きな差はありませんでした。研究室で長い時間を過ごすので先輩・後輩と互いに大きく影響しあいます。
 

つくばでの研究生活
大学院修了時に学術振興会奨励研究員に採用されて2年間同じ大学で博士研究員として研究を行った後、工業技術院化学技術研究所(現在は産業技術総合科学研究所)に就職してタンパク質の分泌と細胞内局在化についての研究に取り組むことになりました。

研究所では地神芳文課長の研究室でヒトリゾチームの遺伝子を化学合成して酵母菌で分泌させるプロジェクトをおこなっていました。私は当時筑波大学の院生だった市川公久君(現在、三共(株)勤務)と共にもっとたくさん分泌する細胞株を作るという役割を担いました。赴任してから3ヶ月ほどの間は散発的に公務員初任者研修を受けたのですが、合間の時間を使って高分泌細胞をスクリーニングするための実験系を作って目標の高分泌生産変異体を容易に得ることができました。これで効率は10倍から20倍程度向上しました。この変異体を詳しく調べてみると、細胞内の液胞プロテアーゼが細胞外に出てしまうという興味深い性質を持っていることもわかりました。研究所では農学部、工学部、理学部や薬学部など出身母体の異なる同僚の研究員と啓発しあいながら活動できたことも成果につながったと感じています。学会発表が縁でエーザイ(株)の研究所と糖タンパク質合成についての共同研究を開始したことや、課長さんに特許明細書の書き方を教えてもらったことなど大学に移ってから役立っています。
 

広島大学へ
吉田和夫教授が広島大学に新設の講座を作るので来て手伝えと言われて1989年に移動しました。新設だから面白そうだと思って移動を決心しましたが、赴任するとキャンパス移転や実験室の設置・機器の購入と運転、実験畑の世話、共通設備の設置や維持管理など次々とこなさなければならず軽率な判断だったとすぐに気付きました。

しかし、研究室に集まってくれた学生たちはみな優秀だったので赴任して2年ほどの間に組み換え遺伝子や遺伝学的な操作をすぐに吸収して成果を出してくれました。文頭に解説した細菌と酵母の間の接合系は最初の大学院生として参加してくれた西川正信君(現在、岡山県生物科学総合研究所勤務)が中心になって実施した研究が土台となっています。また、アグロバクテリアの研究は1990年代半ばから大田伸行君が準備してくれたことが進展しています。研究所から大学に移ってみると教員がみな個性と自己主張を最前面に出して押し切ろうとする姿に困惑しましたが、大学の長所ともなっているのでしょう。雑用に打ちひしがれている時期に教室の教員の理解を得て短期間でしたが米国Cornell大学に留学させてもらい活力を回復しました。


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